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フイリッピンリゾート、老人ぼやき

ルビ リゾート サンタンダー
セブ島はフイリッピンの中央部にあって廻りは島々に囲まれている。
特にレイテ島は日本の軍隊が苦戦した所で多くの戦死者をだしたところだ。
セブ島の東側に隣接する。西側にはネグロス島があり、セブ島の南にボホール島
などに囲まれて波が静かで、台風も殆ど来ないそうだ。

セブ島と言っても南北に長い島で、250kmほどあるそうだ。山梨県位の面積が
あるそうである。又島の周りには大小様々の島も多くリゾートが多い。

私の先輩にKさんと言う方がいらっしゃる。家が近くこの20年来近くのファミレス
で逢ってはコーヒーを飲みながら何時も昔のこと同窓会のことなどを語り合っては
時間を費やした。一昨年Kさんは最愛の奥様を亡くされた。その後半年も経たない内
に今度は私の家内が突然脳内出血で倒れ、入院後58日目にあの世に旅立ったのだ。

Kさんは二人のお嬢様がいらっしゃって上の娘さんは夫婦共に地方公務員で、下の
娘さんもご夫婦共に医学博士で国家公務員であるが別に暮らされていた。
上の娘さんのご主人が定年を前に勤めをやめられてフイリッピンでスキュバーダイビ
ングのホテル経営をしたいとか言って現地に行ったと私に話されたことがある。

お孫さんもドイツ留学も大分なれてきたので、両親の娘さんもご主人について
フイリッピンのセブ島に行くので高齢のKさんを長女の責任で連れて行きたいと計画
されて、Kさんも始めの内はどうかな?と半信半疑でちょっと見てくると私に言って
1,2ヶ月の積もりで出かけられたのだったが一昨年の暮れセブとに家を借りたので
向こうで余生を暮すことになると思っているとおっしゃられたのだった。
そして私にセブ島に来れるなら是非いらっしゃいと言われていたのだ。

今年の正月私の長女が夫婦で来宅、その折に「セブ島」の話しをKさんの手紙を見せ
ながら良い所らしいよと話したら主人と孫娘がセブ島に行ってとてもよいところだと
話してくれた。正月5日、電話で長女からお年玉としてセブ島行きの航空券を上げる
けれどどうすると言われ、行こうかなと返事すると早速ツアーを申し込んでくれた。

1月30日午後2時半成田空港発「セブ島」行きのフィリッピン航空機の中はオフシ
ーズンにも拘らず混んでいた。4時間半で「マクタン空港」に着いたのは現地6時頃
で暗くなりだした頃であった。
そしてツアーの指定ホテルに投宿できたのはよるの10時過ぎであった。

朝目が覚めると部屋の外は海岸であった、遠くに小さな船(ダイビング用)が見えた
長い桟橋?突堤のような橋の横には潮が引いていて現地の人々が貝を掘っていた。

朝食を食べフロントに行ったら、Kさんが娘さんと迎えに来てくれていた。

三泊四日のツアーがKさんの歓待でアット言う間に過ぎ、帰国した後又「セブ島」に
行く事を考え計画を立てたのだった。
やはり長女が足元のおぼつかない私を案じて同行してくれることになった。

次回は5月12日~16日までの4泊5日の旅程を長女が組んで呉れた。

二回目の「セブ島」はKさんの娘さん夫婦の経営するセブ島南端にあるルビリゾート
セブへ体験ダイビングに出かけた。セブ市から約南へ120km、4時間半の距離だ
途中何度か休憩をしながら目的地に辿り着く。殆ど海岸沿いに車は走った。
成田から同じ飛行機に乗っていた7人の女性グループが前日よりこのルビリゾート
を基地にボホール島、ネグロス島のほか小さな島のダイビング適地に専用の船に乗って
毎日2箇所は巡っていたそうである。女性グループと言っても50歳台から70歳台の
中年グループと言えよう。日本の女性はこんな所でも元気に遊んでいる。
中年の男性には及ばないと思う。そこで82歳の私も元気出して一番近いスミロン島
まで行ってシュノーケルをつけてエメラルドの海中に潜ることにした。海中は澄んでいて
本当に南国のグリーンの海水だ。
小船は小さな波でも揺れる、高年齢のものにとってはバランスがとり難い。
若い者たちは平気で船の上を自由に動き回っている。私は甲板によっつんばいになって
動けない。年齢を感じ情けなくなった。

若いと言うことは良いことだ、私も若いときにもっと自由奔放に動き廻ったら良かった
と後悔の念が湧いてきた。セブ島は本当に空気は良いし、気温も常夏の国で、しかも
物価は安い。日本の定年後の人たちが3,000人くらい長期滞在していると聞いた。

Kさんは娘さん夫婦のリゾートホテル経営で、セブ市の隣のマンダウエー市にアメリカ風
の家を一軒かりて滞在している。一階には食堂、応接室、寝室、ケッチン、バストイレ
メイドルーム、運転手の控え室、二階には4個のバストイレ付きのベッドルームがある

所はフイリッピンだがアメリカ風な生活が満喫できる。高齢者にとっては最高の保養地
であると思う。
聞けばこのような生活で、生活費は年金で賄えると聞いた。湿気の多い日本に住むより
は長生きできるのでは無いかと普通の人は羨ましくなるのではと思う。
セブ市やその周りの都市の人口は200万人ほどの都会で大きなマートや市場もあって
生活の不便さは無いという、最近は電話、ファクス、携帯電話、インターネットPC、等
通信手段は世界中何処に居ても瞬時に連絡できる。私達の少年時代とは違う世界である。

少年時代の空想は弾丸列車、弾丸道路、ロケット機、新幹線、テレビ、インターネット
デジカメと現実の世界だ。若い人たちからいろんなことを学んで生活を面白くしょう。




昭和歌謡曲

鴨緑江鉄橋
私も今年は何とか生き延びて、あちこち痛みを抱えながらも頑張っている。
別に頑張らなくても良いのだが、90歳になる先輩がフイリッピンの「セブ島」
に余生を楽しんでおられる事は一つの長生きの目標を与えてくれる。

2月と5月の2回彼の誘いに夫々3泊4日と4泊5日、私の長女付き添いで
セブ島まで行って来た。

セブ島では、話し相手も少なく後輩の訪問を大変喜んでくれて、セブ島の歴史
ある所を案内してくれ、ウオーターフロントにある「カジノ」にもプレイしに
一緒に行ってくれた。90歳と言えば老体にとって大変な行動で感謝したい。

さて先輩は昨年の6月から、始めのうちはどんな所だか見て来ると軽く体験し
に行かれたが、案外セブ島は気候も良く、物価も安く、住民の対日感情も良く
気に入ったらしい。毎日の生活は友人も少なくすることも無く元々歌も好きで
今まで長年暮らしておられた日本でも歌をこよなく愛しておられた。

ところで昭和の歌謡曲では何がと聞くと歌手では「奈良光枝」が一番気に入って
いたそうである。

私の場合は昭和9年に小学校に入学だから、その頃の歌は殆ど知らなかった。
ただ小学校に入る前ごろ、大叔母の経営する支那料理屋(今では中華料理屋)
に清国の山東省から来ていた王蘭亭と言う130キロくらい体重のある帳場
を預かっていたチンコーロー(清国人)がよく私を膝の上に乗せて藤山一郎
の「丘を越えて」と東海林太郎の「国境の町」を歌って呉れ、未だにその歌
は忘れない。「僕は軍人大好きよ」も膝上に乗せて揺らしながら歌ってくれ
たものだ。

朝鮮北西部の小さな町には日本人は約1200人ほど小学校全校生徒数は、
約220人位であった。町の中心と並んで鉄道官舎が50軒程あった。
町のお祭りには「東京音頭」「「東京行進曲」「野崎参り」などの曲が鳴り
響いていた。
「忘れちゃいやよ」「二人は若い」「ああそれなのに」「銀座の柳」などの
唄は今でも覚えている。中学校に入ったのは昭和15年だが「酒は涙かため
息か」と「影を慕いて」はギターで覚えたものだった。
「祇園小唄」えのけん(榎本健一)の「しゃれ男」「幌馬車の歌」「酋長の娘」
「男の純情」「東京ラプソディ」「「うちの女房にゃ髭がある」「人生の並木
道」「露営の歌」「別れのブルース」「雨のブルース」「「旅の夜風」「人生
劇場」などは子供の頃に聞いていた歌だが歌詞は全部は覚えていない。
歌手では「藤山一郎」「淡谷のり子」「東海林太郎」「デイックミネ」「市丸」
「勝太郎」「「渡辺はま子」「菊池章子」達は戦前派であろう。

確かキングレコードから送られて来た湯呑の底にこの歌手達の写真があった。

「露営の歌」「支那の夜」「誰か故郷を想わざる」「麦と兵隊」「暁に祈る」
「東京の花売り娘」「湖畔の宿」「蘇州夜曲」
昭和14,5年頃になると段々と戦時色になって来る。伊藤久雄や灰田勝彦達
が軍歌を歌いだした。
だが「隅田川」「湯島の白夢」「一杯のコーヒーから」「旅姿三人男」「新雪」
「きらめく星座」「明日はお立ちか」「湖畔の乙女」

昭和15年を過ぎると「若鷲の歌」「同期の桜」「加藤隼戦闘隊」「麦音と兵隊」
「ラバウル航空隊」「ラバウル海軍航空隊」と全く戦時の歌になってきた。

昭和20年、戦争は終った。
一番に聞いたのは「りんごの歌」である。この歌は老若男女国民が明るくなった
歌である。続いて「かえり舟」田端義男であったと想う。

終戦時は何処を見ても敗戦の様相、歌も退廃的になってきた。「秘史の流れに」
「夜のプラットホーム」「山小屋の灯火」「異国の丘」「夢淡き東京」
「ブンガワソロ」「憧れのハワイ航路」岡晴夫、小畑実、霧島昇、

昭和22年水泳の40㍍世界記録の「古橋広之進」日本中を明るくする。

帝銀事件の23年には、「東京ブギウギ」太宰治は入水自殺、翌昭和24年には
美空ひばりの「悲しき口笛」笠置しず子の「銀座カンカン娘」
1950(昭和25年)「水色のワルツ」「東京キッド」朝鮮戦争勃発6/25

戦後のアプレゲールの「おお ミステイク」の山際とか何とか言った若者がいた
熊本から東京の大学に進学の志を抱いて上京したのは、この年の4月だった。






鴨緑江の河口燈台

鴨緑江鉄橋
鴨緑江は朝鮮(北朝鮮)と旧満州(支那国或いは清国)との境を流れる、
源流は白頭山から河口の龍岸浦町までの大河である(約800㎞)

古くは日清戦争(明治27,8年)から日露戦争(明治37、8年)は
日本の軍隊が派遣され勝利に終って、明治44年韓国を併合した。
日露戦争の際、軍隊を送りロシヤ軍と戦い、軍隊を輸送する為に鉄橋の
建設を計画されたと聞く。

日本海軍は当時、鉄橋の建設を計画することに従い、鴨緑江の水深を測計
測するために水路部の専門士官を送った。
鴨緑江の河口は潮の満ち引きの差が大きく、しかも常に靄がかかったよう
で船の往来に事故が絶えなかった。

海軍少佐「三浦深海」は河口の「龍岸浦」に燈台の建設を日本政府に任さ
れ全力を挙げ完成させた。当時の「龍岸浦」はロシヤ帝国と大韓国政府の
間で鴨緑江上流の伐採権を高宗から取り、龍岸浦の町はロシヤ人の基地で
あった。

燈台が完成した後は船舶の遭難が大きく減ったのだった。三浦少佐は生涯
この燈台の管理者として昭和7年この地で生涯を終えた。
燈台の名前は三浦海軍少佐の栄誉を讃え「三浦タワー」と名つけられた。

韓国仁川港から丹東港までの定期航路が何回かあるがこの灯台を見ながら
定期船は進んでいる。
もうこの経緯を知っている人は少ない。

兄の戦死(学徒出陣)

学徒出陣
昭和16年12月8日(日本海軍の真珠湾攻撃で戦争は始まった)
当時私は中学校2年生で寄宿舎に居た。8日の朝礼で舎監の訓示から
「戦争が始まった」と告げられた15歳の少年にとっては戦争の意義
を知らないし、当時の学校教育では、この戦争は正義の為であると
頭から信じ込んでいた。
下宿していた兄は昭和17年、東京の大学に進学して、夏休み、冬休
みには24時間もかけて朝鮮海峡を遥々と帰省して来た。
兄はもう一人の同級生がスケートで日大へ、兄は剣道で法政大学に進
んだ。夏休み兄から聞いた話では二人東京の繁華街の辻占いで見て
もらったらどちらかは足を失くし、片方は短命であると告げられたと
言う話をしていた、そのことを終生忘れ得なかった。

昭和18年「学徒出陣」の壮行会が明治神宮球場で挙行され、兄はその
年大学中途で本籍の長崎の大村市の陸軍連隊に入営した。下宿において
ある生活用品を其の儘にして、後日(昭和19年4月)私の海軍甲種飛行
予科練習生入隊の折、母が下関まで同行し荷物を整理に上京したのだった。

兄は幹部候補生の受験の際に病気になって後、門司港から南方に輸送船に
乗り込んだと言う話を父の手紙で予科練にいたとき聞いていた。

昭和20年8月15日戦争の無条件降伏の天皇の放送を千葉県の「香取基地」
で聞いた。10日ほどの後、部隊は解散復員となった。私は家族が朝鮮の
西北部に居住していて、帰る家が無く、朝鮮に渡ることが出来ないので一応
熊本の親戚の家を訪ねることにした。
親戚の家は父の従兄弟に当たる方も職業軍人で4人の息子も陸軍にいる軍国
一家であった。

長くはお邪魔できないので、「長洲町」と言うところの製塩会社に仕事を求め、
続いて宮崎県の「延岡市」の旭化成の延岡工場に職を変えたのは、宿舎があっ
たからである。昭和21年の11月頃ふと朝鮮にまだ居る筈の下の姉に偶然町
の路上で逢った。私が延岡に居ると親戚から聞いて当ても無く探しに来たの
だった。偶然とは恐ろしいものだ。

それから延岡の会社は退職して家族と熊本に住むことになったが昭和23年7月
「熊本市」から兄の戦死の広報が届いたのだった。前夜の夢で兄に逢ってそばに
近づくとどんどんと離れて追いつかない変な夢であった
夢の知らせであったと戦死の公報を見ながら思ったが両親の嘆きを見て辛かった
事を忘れ得ない。

時は流れ、私は東京の職場で「路江」と知り合い28年5月に結婚し、翌年両親
が熊本より上京して私達夫婦の知り合いから赤羽の家を買った。
間もなく上の姉夫婦の学校関係の分譲土地を「練馬区東大泉」に求めバラック
だったが貧しい家を新築した以来58年が経つ。
父は平成4年、95歳と母は平成5年92歳の長命であった。
両親の遺産相続で二人姉に夫々現金を渡し、土地と家(私名義)は独身者用
アパートを建てることにした平成20年4月最愛の妻(路江)が78歳で三人
の娘達と5人の孫を残して黄土へ旅発ったのだ。

苦しいことも悲しいことも共に55年間一生懸命にこころをあわせ懸命に働いて
子供達の進学、結婚と妻の路江が大きな心の支えになっていたことは感謝の気持
ちばかりで、近くの「西本願寺系」のお寺に遠くの西多磨霊園から改葬して毎月
命日にはお参りを欠かさないでいる。

来年厚労省のフイリッピン慰霊碑巡拝が定員を決めて挙行される。両親の出来な
かった兄の慰霊に参加したいと思っている。
今年は先輩の「セブ島」での永住を機会に2度渡航して、8月次女の家族と共
にもう一度行くことにしている。
若くして戦死した兄の命を両親が90歳半ばまで生きながらえたと兄の慰霊に
これまでのことを報告したいと願っている。

先日旧制中学校の後輩から「You Tube」をどうぞとメールに添付して呉れた。
お陰で「学徒出陣明治神宮壮行分列行進」の画像を見ることが出来た。
この分列行進の中に兄がいる、又見送りの各高等女学校の生徒の中に二年前に
先立った亡妻がいるのだと思うと自然と泣けて来る事を止められなかった。

セブ島生活

ルビリゾート サンタンダー
セブ島はフイリッピンの中央部にあって、ビサヤとも言われるフイリッピン第二の都市セブ市(人口75万人)ほどの大都会である。近接する都市の人口をあわせるとその倍の150万人位と思われる。
セブ市には多くのマーケット、市場、世界各国の料理店、日本、韓国、中国、フイリッピン、マレーシア、インド、ヴェトナム、勿論欧州系の料理店も多い。

私達の旧制中学校は戦前の朝鮮西北部にあった日本一小さな学校であった。というのは学年一クラスの55人で朝鮮人の子弟が一割の5人程度が机を並べた。朝鮮人の子弟の場合はヤンバンの(金持ち)家庭の子弟が選ばれて入学できたそうだ。私が入学した時代は日本はもう戦争ムードで、学校教練が厳しかった。大東亜戦争が勃発、学生は軍事教練に明け暮れたものだ!幼年学校や海軍飛行予科練習生に行かれた先輩が「俺に続け」と志願の督励に講堂でアジッていた

私達は知らなかったがもう戦争は負け戦であったが志願できない者はアンチ国民というレッテルを貼られたくない為に陸軍や海軍の少年兵を志したのだった。それも少年として又良い経験をしたとも思っている。
戦後は祖国に引き揚げた家族と共に生活安定のためにいろいろ一生懸命に働いたものだった。

そして生活が幾分落着いた頃、旧中学校の同窓会が始まり今まで全国に散らばっていたクラスメートが人伝に聞き集ってきたものだった。
そして戦後は65年も経ち、同窓生の殆どは子や孫に囲まれ我々中学校同窓会の採集卒業生も喜寿を迎える年齢になっている。
先輩は私の住む近くに住んでおられる。3年前奥様を亡くされ、二人娘さんのうち上の方ご夫婦が「セブ島」で事業を始められた。長女の娘さんは暫くの間父親の先輩wp看ておられたが、地方公務員を退職されてご主人の事業を手助けのため父親を説得して「セブ島」に連れて行かれたのだ。行く前に先輩はどんな所か分からないが良かったら、知らせるから君も来ないかとおっしゃれていたが、「セブ島」から手紙で誘いがあった。
何回か先輩はセブ島と東京の間を行ったり来たりで同窓会や納税申告の時期になると帰国されていたが、それも高齢の為かもうセブ島に腰を据えるとおっしゃられて余生を充分に楽しんでおられる。

セブ市には定年後年金で暮らせると多くの定年退職者が永住している。先輩の誘いで一月と五月の二回、セブ島に行ってきたが、気温は良いし、物価は安いし何といっても住民の優しい国民性と英語の通じるところが住みやすい環境を味わせられる。そして住民の殆どがキリスト教信仰者だ。

セブ島の周りには「ボホール」「レイテ」のほか大小の島々が無数にあり、世界の国々から多くの人々がダイビングスポーツの為リゾートにやって来る。島々は常に暖かいしエメラルドの海は澄んでいて、一日だけだったが私も小船に乗って小さな島「スミロン島」でスノーケルをつけて潜ってきた。慣れればボンベを付けてダイビングを楽しみたいと思っている。

先輩の家は「マンダウエー市」にアメリカ風の二階にはベッドルームが4部屋(どの部屋にもバストイレ付き
現地人の運転手とメイドさんを雇い、出かける時は運転手の運転で何処でも行くそうだ。交通手段の少ないこの地ではこの方法が一番安心できる。セブ市には「アヤラ」「SMマート」と言う大きなデパート看たいな建物の店がある。そして「カジノ」もあって多くの外国人がプレイを楽しんでいた。
物価は日本人にとって驚くほど安価である。マクタン島には国際空港があり成田空港から直行便が毎日運行している

8月には三回目のセブ島旅行を予定している。来年の2月には厚労省の戦没者慰霊巡拝にマニラに行くことにしている
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