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07/24のツイートまとめ

kshinsia1spn6sp

辛し明太子は生まれた時からよく食べていた。昭和10年(1035)頃に朝鮮の寒さよけの食べ物だった。
07-24 22:14

80歳を超えると今年の夏の暑さが堪える!パソコンは孫が一番の先生!
07-24 22:08

@omatsu777%20大韓航空機爆破事件の犠牲者遺族はやるせない気持ち弐本国家公安委員長は個人的パフォーマンス、太平洋戦争の日本軍人の慰霊はまだ60万人以上遺骨未収、この方が先に片付けるのが先だと思う
07-24 22:05

統治下の朝鮮総督府税関

新義州税関
上記の画像は北朝鮮の中国との国境の町「新義州市にある税関建物」である。
ロシヤ風のこの建物は、この地区に、日清戦争の前後にラシヤが李朝の高宗との間で鴨
緑江上流の伐採権を勝ち取った後、河口の龍岸浦にロシヤ人の基地が出来たのだった。
冬の酷寒に備えて弐本の問い内時代に建築した建物はロシヤ風にレンガ造り多い。
この国境の税関(二棟)のほか平安北道道庁、新義州府府庁、ほかに多くの学校、病院、
警察署、公会堂、消防署など現在も残っていた。(1992、’95の新義州訪問の際
見てきた)

北朝鮮の殆どの地域は朝鮮戦争の折、戦場となり多くの建物が破壊されて、他の都市では
殆ど昔の面影は無い。それに比較して「新義州」の町は米軍の爆撃はあったものの、他の
都市のように地上戦場とはならなかったたらしい。

国境を跨ぐ鴨緑江鉄橋は、1911年に開閉橋の附いた鉄橋が完成したが、1944年に
第二鉄橋して第一鉄橋の少し上流に完成したのは私が中学校四年生の時であった。

国境の税関は鴨緑江を両岸に夫々朝鮮川の税関と清国(チンコウ)満州国建国からは満州
側に税関がけられて、朝鮮側は朝鮮総督府の管轄であったと思う。海軍の士官制服と同じ
く短剣を腰に下げていた。河口からは「龍岸浦」「義州」「慈城」「碧道」「公昌」「満
浦」「中江鎮」などの主たる町には税関支所があった。「新義州税関」でも鉄橋の際にも
あったのは記憶に無いが今回北朝鮮入境のにはここの税関を通関したことを思い出す。

この税関検査でエックス線でトランクの中に「ピストル」らしい物があるので開けろと言
われ、私が会いの下開けると、中から西安のお土産用「兵馬庸」であったので係の税関員
も大笑いであった。

昔は対岸の安東市にも船着場と駅には新義州税関の出張馬があったそうだ。
子供の通関には極めて緩やかであった所為かよく大人に洋酒、トランプ、砂糖、外国煙草
などを所持していてもとがめられることは無かった。
国境と言えば必ず密輸は憑き物で密輸で儲けた人も何人か知っている。

[

中部第129電波部隊

旧中部第129部隊
昭和18年東京では各大学校の卒業繰上げで学業で延期していた学生の陸海軍への徴兵
を「学徒出陣」と言って「神宮球場」で壮行会を開催した。甲高い声の「東條英機陸軍
大将兼総理大臣」が学生の分列行進を受け演説していたことが大々的に各新聞にも掲載
された。

私の兄もその一員で雨の降りしきる神宮球場で分列行進に入っていたのだ。
間もなく本籍地であった長崎県は大村の陸軍部隊に入隊した事は当時朝鮮の西北部の
満州国との境の新義州の中学校にいた私にとっては一家から軍人が出ることは町の誉れ
でもあった。当時の社会風潮としては誰もが戦争参加に国を守ると言う軍事教育に染ま
っていた。

当然私も同級の殆どの同級生と共に「海軍甲種飛行予科練習生」に憧れを持っていた。

昭和17年、ドウ、リットル率いるB29が東京爆撃を敢行し早稲田付近に被害が出たこ
とを兄が帰省してその様子を話してくれたことを今も記憶から離れない。又共に大学に
行った、友達(スケート選手)と帰省することもあった。その友達と東京の辻占いで貴
方方は足を失うか早死にするかも知れないよと占ってくれたことを冗談に話してくれた
ことは65年前の話だが未だに覚えている。占いの通り兄は戦死、友達は戦傷で右足を
失った。

昭和21年家族が全員(祖父は引き揚げ船の中で老衰死、両親と直ぐ上の姉に、上の
姉夫婦と赤子)が引き揚げて来た。熊本の親戚の家の一部を借りていたが、間もなく
郊外にバラックの家を父が購入し、姉は東京で教員になった上の姉のところへおさんどん
で上京。父の勧めで熊本の私立専門学校に入学した私は東京の大学に進みたく昭和25年
上京した。

その頃熊本の両親の元へ兄の戦死公報が熊本市役所から届き両親の嘆きは見るも辛かっ
たことを覚えている。前夜の夢に兄が何処までも追ってもどんどんと行ってしまっていなく
なってしまうのだ。夢の知らせと言うか翌日公報が来たのだ。

さて戦死公報には昭和19年10月18日、フイリッピンマニラ湾港外コレヒドール沖で
乗っていた輸送船が米潜水艦の雷撃で沈んだと書かれてあった。

昭和28年両親が子供達がが全員東京にいるので、地方の業界新聞社の東京支社を受け
持つと言う形で母と共に上京してきた。その頃私は職場で知り合った妻「路江」と新し
い生活に入っていたが、熊本市の家を売った金を足して、私達にだけに売りたいと言う
女性の小さな家を買うとにした。父は姉夫婦の学校教員用の分譲土地を別にローン
を組んで契約していた。小さな家をアメリカ人GIに貸して、新しい土地にバラックのよ
うな家を建て両親と私達夫婦が住むことになた。昭和29年の5月であった。

我が妻「路江」は東京生まれだが父親に戦後直ぐ14歳時に死に別れ戦災にあって、静岡
の磐田に疎開をしていた時期がある。その時見付にあった、この表題の「中部大29部隊
兵舎」に勤労作業で行っていたと話していた。思うに何か兄を通じて私との赤い糸で結ば
れる縁があったのだろうと二人で話し合ったものだ。家内は一昨年平成20年4月この世
を去った。実母と同じ脳出血であった。享年78歳。

両親も兄に貰ったと思われる生命で平成4年、5年と続いて95歳と92歳の長命を全う
した、近くの「真龍寺」(浄土真宗)の墓に妻、路江と眠っている。20日、21日、
28日が命日になる。

厚労省主催の戦没者慰霊碑巡拝のツアーがあると長女が区役所から申込書を貰ってきた
来年の2月、マニラ、バギオを廻る10日間で最後にマニラの慰霊碑で合同の慰霊祭を
厚労大臣もしくは現地フイリッピン日本大使出席の元挙行されるのだそうだ。来年行け
るなら行きたいが加齢と共に老体となれば行けなくなるだろう。
そこで戦死した兄の兵籍調査票を本籍地だった長崎県庁から取り寄せた。
調査票を見て初めて分かったことは、19年7月にマリアナ島で罹病と書かれてあった
これは初めて分かったことだが、甲種幹部候補生の試験を受験する際に病気になったこと
は父から聞いていたが、マリアナとは初耳である。19年8月門司港から輸送船に乗った
と言うことは戦前か戦後か忘れたが父から聞いていたことである。それに戦死時所属して
いた部隊名に「第七飛行師団」となていた。

昭和19年4月私が「海軍甲種飛行予科練習生」の鹿児島航空隊に入隊する際、あの朝鮮
の西北部の片田舎から下関港まで一緒について来た、母が東京の兄の下宿先に置いてある
荷物を整理しに行ったついでに磐田の兄がいた電波部隊に面会に行ったところ一日中待っ
てやっと会えたと聞いたことがある。又亡妻の路江からは見付けの連隊に勤労作業に行っ
てよく兵隊さんと話をしていたことがあったよと何時も話していた。

磐田の電波部隊をインターネットで調べていたら、「旧第四航空情報連隊跡」「旧第一航
空情報連隊跡」のほか「通称中部129部隊」「東海大552部隊」などが出ていたのだ。
亡妻の話と変らない事実が書かれてあった。

「がま口塾」と言うサイトに名古屋のアナウンサー女史のお名前を拝見してたら同じ部隊
にお父上の129部隊の記述があったので早速メールでご存知ならと聞いてみたら即親切
丁寧なお返事を頂いた。
知的なお仕事をされておられると拝察する。徐々に兄の戦死の状況が解析できるような気
がする。

両親の話、亡妻の話などを纏め、段々と不明であった部分が分かってきた今日この頃で
ある。初めてお便りした親切な方など多くの人々にお世話になる。特に近くに所帯を
持っている長女には色々なことを教えられるのが嬉しい。死ぬまでにまだ知りたいこと、
やっておきたいことが沢山ある。



ごまめのぼやき!

新義州税関
新義州税関は今も変わりない姿を見せている。
新義州市には日本統治時代(1910から1945)に新しい町として、先ず京義線の終
点駅が浜町に終点として完成、その直ぐそばにこの税関の建物が出来たのだった。
レンガ建ての税関は二棟ある。中に入ったことは無いのでどういう仕分けかは知らないが、
鴨緑江の岸に対岸の安東県行きのプロペラ船の発着する桟橋があった。夏はプロペラ船、
冬は屈強なニーやんが漕ぐ、橇の出入りで賑わった。新義州っ子のヤンバンの子息の同級
生と一緒に橇に乗って向こう岸の旧清国(満州国)安東市に、息は0銭、帰りは5銭であ
った.

それは何故かと尋ねれば行きは向かい風、帰りは追い風と言う理由であった。それは地方
から来た私にとっては全くの初耳であった。依頼他の友達と安東に行く機会があれば、行
きは出させ、帰りは自分が払うと言ってやろうと思ったが二度とその機会は無かったそれ
は上流の水方ダムの完成で鴨緑江の水が凍らなくなったからだ。記憶だけは死ぬまで忘れ
ないだろう。

安東市は新義州府よりも大きい町であった。新義州の日本人数が1万人であったに対し、
安東市は3万人の人口であった。しかも満鉄経営の行政、商工の町であった上にロシヤ系
の住人もいてエキゾチックな町に見えた。税関は表題の写真の税関と鉄橋の両端にある税
関を通らなければ通行は出来ない。
国境であるのは、それぞれの都市の通過や物価の差があり、それを見越して物品の密輸す
る者が堪えなかった。例えば鉄橋を渡ってくる鉄道列車が駅構内に入る寸前はスピードが
歩くような速さになる。
その途端列車から大勢の朝鮮人男女が飛び降りる、税関の目逃れて、物品の売買で利鞘を
設けると言う具合である。特に女の場合は宝石類をゴム嚢に入れ、税関の係が触れない所
に隠して密輸を企てると言う次第である。男性も地産貴重品を飲み込み税関を通り抜ける
算段をするのが手法であった。

我々は子供であるので税関で調べられることは無かったが、大人に頼まれて酒類、遊戯(
トランプ、花札類)を頼まれることはあったようだ。列車の中には移動警察官が巡察して
いた。戦後は昭和21年の暮れ頃まで日本人は引き揚げが侭ならなかったようだった。私
の家族も昭和21年10月に祖父、両親、姉、上の姉夫婦と赤子が朝鮮人から2隻の船を
チャーターして200人が沿岸沿いに南を目指して台風の中を約一ヶ月掛けて仁川近くま
で越えてきたのだ。再会してその事に関しては余り話したがらなかった。その両親も95
歳と92歳で平成4年5年にこの世を去った。兄の22歳の戦死が両親を長生きさせてく
れたと信じている。

さて私の父は、24歳の時、定州の町に日露戦争時に軍隊についてくる商人の一人として
祖父の妹にあたる父にとって叔母が連れ合いと死に別れ、父を呼んだらしい。大正8年で
あったと聞いている。その後父は小さな町で文房具、新聞店、レコード、スポーツ器具な
どいろいろなとをやって来て4人の子供を育ててきた。私は末っ子であった。父は日本人
会の先輩に習って謡曲をやったり、同僚のオートバイ店からBSAというイギリスのバイク
を買わせられたり、日本に20台輸入された「スミスコロナ」のかな文字タイプライター
を購入したりして当時としてはハイカラな部類の人間だったらしい。

遺伝では無いかと思われるが私も「パソコン」「fax機器」「携帯電話」などを取り入れ
て20年を過ぎた。フアックスの場合は商売の道具であったが「携帯電話」ははじめはト
ヨタの新車を購入した際に自動車電話として取り付けたが移動する場合には大きなバッグ
を抱えて持ちまわったものだ。考えて見るとあまり利用できなかった。次にフアックスで
あるが電電公社が奨めるレンタル機器で毎月3万円支払いの60ケ月の180万円を二回
続けたもので10年間で180万円支払った。それも現在のように小さくて機能の良い者
ではなかった。は誰もが持っている携帯だが所期はこのような状態であった。覚醒の感が
ある。

自家用車も昭和30年始からトヨタ、日産、いすず、マツダ、ホンダと50台位は購入し
ただろう。外車も新車の「BMW」などを乗り回したものである。
平成に入ってからは同級生3組の夫妻とカナダ、ヨーロッパ、オーストラリヤと10年間
はしんだが中学校同窓会の為「北朝鮮」にも3回渡航して鴨緑江には15回ほど遊覧旅行
したので大勢の人たちと仲良くなった。

さて本題の新義州税関の建物であるが、橋際にも税関建物がある。鴨緑江の鉄橋を渡って
この朝鮮側の時間に中国のチャーターバスで入って税関検査を受けたことがある。担当市
のある幹部から西安の遺跡のお土産用「兵馬俑」をトランクに入れておいたが。エックス
線で見ると丁度ピストルの形のものが入っていると疑われて中を見せろと言う。「兵馬俑」
の頭の部分がピストルの銃口に見えるのだ。開けてみて係の税関員と大笑いした。なんで
もないのだがその税関員に日本の「タンベ」を1カートンあげたら「コマスミニダ!」と
喜んでいたことを思い出し好意は何処の国の人にも通じると思った。

韓国にしろ、北朝鮮にしろ、特にフィリッピンの税関員は袖の下が喜ばれると感じた。日
本の税関ではそれが効かない硬い国柄であると思う。

ところ変われば品変わるの例えとおりだが、北朝鮮に同窓会の行事として1992年’9
5年の2回或る北朝鮮の有力者を通じ観光旅行の形で交渉が上手く行ったことがある。
新義州の市内を散策できると言う条件をつけて見たが、良いですよと確約が取れた。
丹東市人民政府のトップの方にこの件を後方応援を頼んだらこれも快諾を得た。
丹東市と新義州市の市人民政府は日本と違って隣同士の交流は全く問題は無かった。
寧ろ丹東市の幹部は宜しくと言った程度の挨拶だけだっただろうと推察した。

丹東市の幹部の一人息子の日本留学の道筋をあらかじめ用意しておいた返答の意味もあっ
た北朝鮮の新義州市中国国際旅行社のチャーター小型バスを2台で鉄橋を渡り入境した。
鉄橋を渡る際は日本の唄「故郷」をテープで聞きながら全員が興奮の極みであった。
50年の歳月は懐かしさを通り越して夢ではなく現実であった。

よく夢の中に新義州から定州までの汽車で帰省するあの夢が源次sつとなったのである。
思う念と言うか「新年岩尾も通す」の格言を思い出した。

ピンヤンでは朝鮮旅行社の副社長が挨拶に来た。来日の時我が家にも来た顔なじみの人物
である。国際飯店で焼肉、冷麺を食べたいだけ食べる歓迎会が催された。ガイドも定州出
身の外国語大学出身の若者のほかに4,5人つけてくれたのだが全員監視員であったこと
が、あとで分かった次第である。私についたガイドは好意を持って接してくれた。余程の
エリートであったか、4,5年後日本に何度も北朝鮮の団体の訪日に付随して来たのだ。

金正日総書記の学友の大物人物を紹介して呉れて、その人は別に私だけを特別招待状を輸送
して来た。妙高山や金剛山などのホテル宿泊まで用意してくれた。北朝鮮から「平壌音楽舞
踊団」の日本国内興業にも招待状が来たので我々同窓会の会長にもご一緒頂いた事がある。






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