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人生80年#

鴨緑江は中国語で「ヤール」と言う。ヤールとは鴨の胴体
の色の緑、藍色に似ていると言われる。
その鴨緑江に支那と朝鮮の国境を跨いで鉄橋が架けられ
たのは1905(明治40年)の頃だと聞いている。
日露の戦いで軍隊輸送の目的で日本政府が建設したのだ
と歴史にある。

私が中学校4年生の時、もう一つの鉄橋が同じく日本政府
の投資で架けられ完成した。その時、上流に水豊ダムも同
時に建設されていて実用に入っていた。下流の新義州では
毎年凍っていた鴨緑江が凍らなくなったのだ。

安東会の中国丹東市訪問旅行のツアーに入れて貰って、’
88年丹東市訪問旅行に参加した。北京、丹東、撫順、奉天
上海と巡り帰途の日航機の中で冷房が効きすぎ帰宅後に
風邪を引いて仕事に影響したことがある。

同じく1990年、我々中学校同窓会で鴨緑江周遊旅行を企
画したことがある。参加者は僅か20名であったが先の安東
会旅行の縁で交流が出来た丹東市の幹部達の厚遇を得た

鴨緑江の舟遊びを経験しながら、どうしても北朝鮮新義州に
入りたくなったのは当然である。帰国後、朝鮮総連系の旅行
会社(C旅行社)を通じ、新義州市を訪問する企画をたてた。
同窓会事務局を通じ、希望者を募ったら40名前後の希望者
が集まった。1992年9月会長の成田空港までの見送りと共
に旅行団は結成され、勇躍北京周りで丹東市から新義州市
に入境する企画は今更ながら興奮状態になったものだ。
母校があった新義州市には47年ぶりの訪れである。

北京から丹東市まで国際列車の寝台車で午前6時、懐かしい
旧安東県に入る、鎮江山、兜山、鳥居、沙河鎮、ビクトリヤ、
50年前が目の前だ。そして中国国際旅行社の小型バス2台で
鴨緑江鉄橋を渡り、いよいよ第二の故郷「新義州」に入る。
北朝鮮側の橋際の税関で持ち込み荷物の検査さある。私の
トランクにピストルらしき物があるかあr明けろと言われる。
危険な物は入っていない筈と空けると、丹東市の幹部から土産
に貰った「兵馬庸の人形」の頭部分がピストルに見えたらしい。
大笑いで済んだ。あの笑いの少ない朝鮮の税関員も大笑い!

我々を乗せた中国の小型貸切バスは税関を出て、本町通りから
旧税関、守備隊通りを「黄金町を折れて、東中学校前の新義州
青年駅に着いた。20分の余裕に付近を散策しても良いと粋な
ガイドの計らいで三々五々と駅前の付近を廻った。
新義州の町は朝鮮戦争で米空軍爆撃で町の建物は変わって
いたが、旧日本の建物は幾つかは残っていた。 「守備隊」
「道庁」「府庁」「税関」「女学校」「道立病院」「王子製紙工場」
「金融組合連合会」「測候所」新義州駅は爆撃で消失、新しい
駅舎が少し東側に寄って建てられていた。その名も「新義州青年
駅」となってVIP専用の待合所もあった。

後日1995年4月、再度「古山高麗雄」「N,T君」の三人で来た時
には道立病院も残っていた。
又グーグルの衛星写真では我が母校も校舎が増えていて確認
出来ないが恐らく爆撃に耐えてのこっていたと思う。

ピョンヤンでは多くの北朝鮮観光旅行者がガイドの監視の元で
決められたコースしか見られない卑屈な観光を強いられるのが
この国の仕来りである。

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