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人生80年

昭和一桁生まれの私は、平成20年55年も連れ添った家内
に先立たれ、二人で購入した倉庫用家屋にをリホームして、
上階に三女の二人の孫娘の4人で住んでいる。

思えば長い人生だったが、振り返ってみると、アッと言う間の
人生であった。

昭和3年と言えば、記憶は無いが、今は北朝鮮になっている
朝鮮の西北部、平安北道定州郡定州邑に生を受けた。
それは人口一万人弱の内、日本人は1,200人程の小さな
町であった。小学校は全校生徒220人位の尋常高等小学校
で「加納が丘小学校」と言った。日露戦争で戦死した加納騎兵
中尉率いる7名の斥候兵がロシヤ軍に全滅させられた忠霊塔
が小学校の校庭の南にあった。
両親はしがない新聞販売店、文房具店他を兼ねた小売店商売
をして兄弟4人と隠居している祖父を養っていた。
そして昭和15年、道庁のある新義州の町の中学校に進学した
のである。5年上の兄が当地の商業学校に在学していたので、
兄と一緒に下宿して中学校に通学することになったのだ。

間もなく兄は上京して法政大学専門部へ進学し昭和18年の秋
「学徒出陣」で陸軍の電波部隊に入隊したのである。
昭和19年中学4年生終了時、私は「海軍甲種飛行予科練習生」
で鹿児島県垂水海軍航空隊へ入隊した。
その前に、我が家では、祖父の妹(父の叔母)が同じ定州の町で
「東江楼」と言う定州の町で一軒しかない「支那料理屋」を支那人
4,5人を雇って経営していた。その大叔母が父を呼び寄せたのだ
と聞いていた。

昭和20年8月、戦争は終った。10日ほどで隊は解散となり、朝鮮
の自宅には帰れず、熊本の親戚「狩場家」に一時身を寄せたのだ
何時までも居候もしておれず、長洲町の製塩会社に働くことにした
敗戦の世の中は食料も少なく、国民全体が飢えていた。間もなく、
延岡の旭化成工場のレーヨン部へ仕事を変え、工場の幹部から、
大分の臼杵に会社を開設するから来ないかと誘われたが返事が
出来ないまま、21年暮、ひょっとした機会に朝鮮から引き揚げて
いた直ぐ下の姉に会って、両親も朝鮮から熊本に引き揚げて来て
いることを知った。22年両親と一緒に生活することになったので、
熊本の語学専門学校へ進学することにしたのだ。

上の姉の主人である金子が大田区の小学校の教員で、都営住宅
が抽選で当たり、姪「奈美子」も朝鮮で生まれ、共に引き揚げて来
てまだ3歳の頃であった。狭い住宅には無理なので、宿舎のある、
仕事場を探し働くことで大学進学を目指したが、とても食うのが一杯
で、進学どころでは無かった。そのうちに幾つか仕事を変え、転々と
したが、学歴無し、特定住所無しの身には一流会社にも程遠かった
英会話を身につけ、働けるところならば何処でも良かった。銀座の
「松屋デパート」跡のアメリカ駐留軍関係の「JCE」Japan central
exchange,に働き出して、妻となる「路江」に出会ったのだった。

メインPXに1500人からの女性従業員がいるが、三階の時計修理店
に働く彼女に、この女性ならば一生共に生活できると感じた。
昭和28年4月、北区稲付町に部屋を借り、共に生活を始めたものだ。
間もなくPXは閉鎖、朝霞の「キャンプドレーク」の中のPX#55に再就職
した。路江は王子にある米軍補給所内の時計修理会社の分店勤めに
変わり徒歩で通勤を始めた。途中に実家の中十条があり、毎日立ち
寄れる楽しみがあった。部屋は炊事場も無い狭い部屋のみであった。

熊本から両親が上京して熊本の業界新聞社の東京支店を始めて、稲
付の家主の貸地の家(愛子とラーリー)を買うことにし、両親と共同生活
が始まった。父は上の姉の学校関係の分譲土地の東大泉の70坪の
土地が抽選で当たり購入し家を建てることになった。稲付けの家は一時
外人に貸し、3年後大家の爺さんに買ってもらうことにしたのだ。

土地は70坪で慶35万円、ローンで父親名義で登記したのだ。家も近所
の工務店に頼んで建築したが、お粗末な家であった。当時の新築の家の
周りはまだ家々も無く、畑の土ぼこりが舞っていて家の中は土だらけにな
った。そのうち私も埼玉県は平林寺の近くの大和田レシーバーステーション
に勤務が変わホンダの220CCのバイクで通勤を始めたのだった。
昭和31年初頭、長女「せつ子」が誕生した。両親は大喜びだったが、栄養
不足の未熟赤子だった。路江は良く働き、子供の養育に必死だった。
続けて32年、次女「あつ子」が生まれた。年子なので路江の苦労は並大抵
では無かっただろう。それでも共働きを続けて家系を助けてくれた。

昭和32年、駐留軍での働きをもうこれまでと思い転職することにしたが、又
田町にあった、アメリカ日系二世の経営する「クライスラー輸入代理店」に、
営業で働くことになった。しかし基本給は僅かで歩合給の仕事であったので
油断が出来ないものであった。先ずは新車の「ダッジ」を木場の材木店の
社長に買って貰えた。当時の価格は400万円であった。歩合は2万円だった。
続いて「いすず」の「ヒルマン」は価格100万円であったが谷中の根津製餡所
の社用にと売り込むことが出来た。この社長は当時の水泳連盟理事長だった

映画監督、映画女優、カメラ製作所、レンズの保谷光学社長の家は石神井で
近かったので夜中の12時頃に押しかけて行って買っ頂くことが出来た。
翌朝会社の経理に別の車が護衛して800万円の現金を受け取った。この時の
手数料は20数万円であった。こらh結果的に良く無かった。慢心して仕事を、
舐めたのかも知れない。顧客から車を預かり神田の会社の要望で名義を変え
取引に残金を取ることが出来ずに騙された形となり横須賀の土地と家の権利書
を金に換えるのに一年以上費やしたのだった。

横須賀の家は100年を経過した古い家で、山崎元陸軍中将の関係の方が住ま
われた家だと聞いたが襖や障子等建て付けがまでが緩んで夜中に倒れてくる
始末だった。路江は専ら二人の小さな娘の育児にも拘らず近所の米屋に働き
かけてこの古い家を買って貰うことに話をつけてくれた。50万円であった。
昭和33年、東京タワーの建設が日増しに高くなっていくのが、飯倉の「小太夫
さん」の家に行くたびに目についた。
昭和35年三女「むつ子」が誕生、健康的な大きい赤子だった。東京住宅分譲
抽選で期せずして中台の一戸が当たった。昭和36年であった。
三人の幼い娘達と喜び勇んで引越したが、39年、せつ子三年生、あつ子2年
生、むつ子幼稚園の時仙台に支社長代理で行くことになった。
翌40年、石神井団地に空きがあって東大泉の両親の住む家の近くに引越しに
なる。この賃貸団地に数年、子供達は大泉小学校に通学、この頃はアメリカの
出版会社でアメリカーナと言うエンサイクロぺディアの訪問販売会社に働いてい
た。昭和44年、新宿は大久保の高層住宅(日本住宅公団)の一室が抽選で当選
495万円のローンで入居することが出来て、せつ子は両親の東大泉の家から
石神井中学校に通学、あつ子は大久保中学校、むつ子は大久保小学校と成長

3年後の47年、高島平の分譲積立住宅に引っ越すことになった。せつ子は高校
へあつ子も広尾高校に進学するようになった。新宿の一室も貸室として家賃収入
を計ることになったが相変わらず私の仕事は不安定であった。
47年父親から東大泉の家も古くなって住み難くなったので、この辺でナショナル
のプレハブ住宅を建ててtみないかと言って来たので「高島平住宅」を売ってその
金で新築しようと言うことになった。高島平住宅を2,500万円で売り、2,000
万円でナショナル住宅を新築することになった。総二階188㎡の大きな家にした
昭和53年の年であった。前年路江の母親が脳出血で亡くなった。

路江はそんの頃、Hと言う出版会社で働いていたが、アメリカ研修に参加しせつ
子は「F工業㈱」に勤めていたが一緒に旅行に行くことになった。
ニューヨーク、アトランタ、フロリダと2週間の旅行であった。せつ子は会社に居ず
らくなって退社し、「Brij」に入社M.Hと縁あって、56年結婚式を挙げた。
あつ子も上智大学に、むつ子も駒沢大学に進学。私は高島平の家を売った残金
で何となく外国の商品を仕入れて卸す商売をしたいとオーストリアからスキー
スーベニア商品を輸入してみた。早速輸入品を何処に卸すか考えて、関越高速
Kエリア上り売店に売り込みに行った。3日ほど経った頃、売店長の「Hさん」から
電話があって商品を納入するようにと取引が始まった。
勢いを得て、他のサービスエリア(東北、東名、中央)を営業して廻った。
次第に納入先が増え、更に「Fランド」の23店舗にまで納入が出来るように
なったが、仕入先との不調和でFFランドの取引を止め。高速道路のPA,SAを
20店舗以上に取引が出来るようになった。

しかし納入に関しては夫々の店長、売店長とのコミュニュケーションが欠かせな
かった。時には店長と息が合わず、涙を呑んだこともしばしばであった。
平成4年、2月父が千葉の老人養護体験入居の最中。出された食事を喉に詰まら
せて死亡した、翌年母が上の姉の家で夜中にベッドから落ちて死亡した。

仕事も忙しくなり、まだ結婚前のあつ子やむつ子の応援によって、仕入れに中国と
言いながら、中学生時代の隣町の安東(丹東)旅行に行き、3,4回行くことになり
其処から見える中学生時代の新義州の町にどうしても入りたくなった。(つづく)






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