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朝鮮平安北道定州邑周辺

古来、平壌、義州間の要益として守備厳重だった定州は、西北に凌漢山、深源山、独将山などの山岳が起伏し、東南の地は遠く開けて海(黄海)に連なり撻川江の流れは邑内の東方を還流している。
付近一帯は沃野に恵まれ、米や大豆などの農産物に富むほか、果樹の栽培に適し林檎の年産は推測200トンと言われた。定州はもと高麗朝に属し亀州と称した。李朝太祖が高麗元帥となり、元軍を撃破して朝鮮国王となった発祥の地で、定遠、鳥川、隋川とも言われた。のち世宗十二年定州と称し
一時定原と改めたがのち再び定州と改称し、併合後は郭山郡を合わせて今日に至り邑を廻る城壁が残っている。文禄の役(1592年秀吉の朝鮮侵略出兵)には、宣祖は都漢陽を後ににして西に逃げたが、定州では豪卓竜の邸に駕を止めたものの豊臣軍(小西行長軍)の追撃は激しく、韓軍は撻川江畔で防戦に破れ、宣祖は敗軍と西に遁走し、東門に駐踽碑が建てられている。碑は全羅の海中
から採取したもので、石質優美で普通鏡石と称えられいるが、碑文には日本を罵倒した激しい文面
が刻まれている。
日露戦争の初戦は加納忠男中率いる7名の騎兵斥候隊がロシヤ軍200騎に囲まれ援軍が間に合わず全員戦死した忠魂碑が建てられている。
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