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義中会、中国、北朝鮮(二度)旅行

昭和56年頃(昭和26年頃からの勤め仕事)も続かず
営業の仕事も中々ありつけなかったので練馬に家を
新築した際、何か貿易の仕事をやりたいと、外国の会社
に手紙を書いて見た。オーストリアのスーベニアの会社
のパンフレットを見ながら玩具のようなスキースーベニア
を少し取って見ることにした。

高島平の団地の住んでいた家を売却、その金でナショナル
ハウスを(総二階144㎡)を建てたのだった。まだ両親も
健在だが、80歳半ばの年齢であった。
私は50歳前半の健康な身体であったが家内は姑や舅の
休まるようにと新宿の着物の会社に働いていた。
年頃の娘が三人いるので、着物の必要性を感じていたの
だったと思う。

私はただ思い付きの外国商品の販売をしてみたかったと
今考えると崖っぷちに立っていたのかも知れない。
オーストリアから商品が10種類、15箱くらいが送られて
来たが、さてコレをどういう風に売ればよいものか途方に
くれた。
幸い家を売却した残りの資金が残っていたのが助かった

しかし収入が無ければ直ぐそこをつく。オーストリアのスキー
スーベニア商品を抱え考えた。まだ完成していない高速
道路のサービスエリアの売店に委託でも良いけれど折衝し
て於いてもらおうと考えた末、関越高速道路の上り売店に
置いて貰うと上りのサ-ビス、パーキングエリアに交渉を
始めたが中々商談は進まなかった。

ある日、「上郷サービスエリア」の売店長から電話が入って
その商品を置いて見ようという事になったのだ。今も忘れない
「平野さん」と言う方で、九州の本部から毎週飛行機で飛んで
来るビジネスマンであった。

始のうちは、一月30万円も売れない月が多かったのだ、それ
では生活は出来ない。売店長は他に何かキーチェンでも持って
来たらと好意的であった。早速茅場町に行き売れそうな商品を
仕入れ売店に持っていったら結構売れに売れた。
後は取引売店を増やしていけばと往復の間、高速道路の売店
を歩いて廻った。東明高速の「富士川サービス」からも電話があ
り半年の間に10売店ほど増えたのだった。
出来れば高速道路の東京の入り口に近いサービス、パーキング
が効率も良くなるだろうと必死に営業を続けた。

関越、東北、常磐と三店舗を持つ同一の会社にも取引が出来た
そして売店が30箇所もある「遊園地」にも出入りするようになった
この仕事は特にお盆、正月と帰省客は観光客の多い夏のお盆を
中心に営業が伸びて行った。この仕事を初めて10年目には8月
¥1,000万円に及ぶ売り上げが二年続いた。

1988年、安東会で中国旅行会があり、昔行ったこともある丹東
市に10日間の旅行に行ってみた。それからが旅行に嵌って家内
とヨーロッパ旅行を考えることになったのだ。

中国の市政府の幹部は、行政官の上に共産党があり、行政を
監視しているらしい。人民委員会という名で極めて権力のある
組織である。
韓国もそうだが行政の役人になると、かなりの役職者が権利を
振りまいて良い思いをするらしい。

それから北朝鮮との国境では北朝鮮からの密輸が盛んである。

北朝鮮も密輸で潤っているらしい。これは何処の国でも有りうる
はなしである。

ある幹部に頼まれて、幹部の子息の日本留学の手続きを頼まれ
二年がかりでお世話したことがある。又上海の市幹部の息子は
13歳の頃から日本語を学び、正確な日本語を話していた。
この青年も日本留学を望み、ある人に保証人になってもらい、突然
私に電話をかけて来た。そして私の会社でアルバイトをしながら、
日本大学を卒業して現在は中年で上海市の幹部となっている。

幹部の息子で私が留学の手続きをした青年は留学当時全く日本
語を話せなかったが、語学取得の上大学で学び6年間の留学生活
で日本語も堪能となり現在は日本人のお嫁さんを伴って帰国して、
旅行社を経営している。

さて義中会は今年名古屋市のホテルで第35回総会を開催した。
出席者は少なかったが、実りある同窓会であった。

戦後10年ほどは、同窓会を結成するほど世の中が落着いて無く
昭和の40年ごろから各学年の消息が分かりはじめたものだ。
昭和40年始には、10人前後だったクラスメートが、平成に入ると
30名を超えた。残り20名以上は死亡であった。中には長崎被爆
で、朝鮮戦争で北朝鮮に銃殺された韓国人同級生も弟がいた。

有馬温泉でクラス会の時は20数名が集まったが、それが最高の
人数であった。1988年ソウル市で日韓合同の同窓会があったが
80名ほどの同窓生が集まったことがある。一度だけだった。

平成4年(1992年)北朝鮮の担当者と折衝の末、新義州市に入境
して北朝鮮5泊6日の旅行を同窓会で挙行した。総勢40名皆興奮
して国境の鴨緑江大橋を中国国際旅行社の借り切りバス2台で渡
たり新義州市内に入ったことがある。市内は北朝鮮の各市町村の
中では唯一日本統治時代の建物が残っていた。道庁、府庁、郵便局
王子製紙工場、税関などに少数の学校が残存していた事を確認した

平成7年、再度新義州を訪問したが、市の都合で入る事を拒否された
がしかし古山高麗雄さん、梨本さんと三人でピョンヤンから車で陸路
往復したことがあった。
4月29日の気候の良い日であった。道路の両側には桜、杏、林檎の
花が咲き乱れ正に桃源郷で夢見る境地を味わった。

龍川郡を通過して新義州市の入り口の三橋川橋に朝鮮保安隊の詰所
があった。24時間洪体制なら5,60人の保安員詰所だ。
橋を通って新義州に入る者の検問をするところである。若い女性が二人
自転車の荷台に今屠殺したばかりの犬を積んで若い保安員に身分証も
見せずに気安く声をかけて入っていくではないか、何処の国でも同じ事
でもあるが、つい見とれてしまった。

一時間以上も待たせられ、いよいよ新義州市内に入る許可が出て私達
を乗せた車は南新義州の京義線土手に平行して走った。見覚えのある
光景であった。車はまっすぐ「鴨緑江ホテル」の裏口に駐車してホテルの
ロビーで市の幹部が来るのを待っていたが、ホールは真っ暗であった。
電力不測から来るインフラの貧しさが分かるようである。
やがて市の幹部が来てガイドに「一応市内を一巡して直ぐ市から出て行く
ように」と言ったそうである。早速旧王子製紙工場跡の入り口付近を廻り
駅前を通って本町通りに出た。旧道庁前から旧中学校に行くべく左に曲が
り暫く行くと車止めがあってその先は通行禁止であった。ではと元来た道
に戻り、税関通りに出て平安神社通りを中学校方向に走らせると後から
黒い服を着た屈強な男が4人ほど同じく乗用車でついて来た。我々の車の
横につけて運転手とガイドに朝鮮語で何やら喋っていた。
ガイドがこの先には行くことが出来ないと車を元道庁立病院の門の中にと
バックして方向転換して元来た道へ帰ることになった。それjからは元の道
を帰って市内を出て行く事になた。不満ではあったが郷に入れば郷に従え
の例え通りガイドの言う侭になるを得なかった。車は1路ピョンヤンに向かっ
て帰途に着いたのだった。帰りに定州のな予定が定州につく頃は廻りは暗
くなって止むを得ずピョンヤンに向かった、高麗ホテルに着いたのは夜の12
時であった。5人で夕食はプルコギとビールで夜中に腹痛で七転八倒、犬肉
が胃の中で大暴れしたのだろう。朝職の時にはケロッと治っていた。

朝鮮国際旅行社は旅行者の日程を都合で良く変える。国際法では海外旅行
ではこう言う場合は全額返金である。国全体が遅れているのは専制国家だか
らであろうか!

話は元に戻るが、大同江ホテルで新義州行きを待っている最中、係りの案内
人が中々来ない、新義州に行くことにつぃて何かはっきりしない。
東京にいるとき朴○○と約束したことが守られていない。朴を呼べと再三言っ
てやっと来たが何だかんだと口をもごもごさせている。
約束を守らないならば直ぐ帰国の手続きしなさいと此方も興奮したものだった
やっと車が来たのは良いがこれも約束の「べンツ」では無く今まで朝鮮内を
廻ってきた「いすず」の中型晩であった。北朝鮮では道路がまだ未舗装の所
が多く、後部に20リットル入りの石油缶二缶に「ガソリン」を用意して出発、
安の丈、ピョンヤン~シニジュまでは旧京義国道の一般道路である。しかも
高速道路ではなく殆ど舗装されて無い砂利道であった。ただし、安州とか、
定州などのいくらか大きな要衝の町の出入り口は干そうがされてあった。

途中トイレが無いので草原の土手を見つけるとそこで皆で放尿したのだった
女性は連れてこられないツアーであった。









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