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終戦

昭和19年4月1日、旧姓中学校四年生終了後、海軍
甲種飛行予科練習生に入隊し、鹿児島に半年間の後
千葉県の香取基地へ同期20名と共に配属された。

甲種予科練の進級は早く、半年で飛行兵長になった。

しかし海軍は星の数より、飯の数と言われて、古参の
一等兵にもぶん殴られたものだった。
香取基地でも航空魚雷の整備はやはり年季の入った
普通科、高等科整備の出身の古参兵士が主流だった

我々甲種予科練生は半年くらいの普通科訓練では、
飛行機に整備が済んだ魚雷を抱えて行くには訓練が
足りないと古強者達が魚雷の整備を完全にやるのだ
我々新米には立ち入る隙が無い。

魚雷は目標を見て、機上から目標の艦首を見極めて
戦艦、航空母艦なら深度を10mに設定する。巡洋艦
や駆逐艦ならばその大きさによって深度を3mから5
mとか7メートルに出来るのだ。そして整備が悪けれ
ば、魚雷は目標を外れたり、中途沈没したりで戦果
があがらない。ゼロ戦では一機一発の魚雷しか積め
ないのだ。魚雷整備は背人が重いと言うことが分か
った。

そして整備場から基地の雷撃機まで特殊のトラック
で二本づつ運ぶのだ。或るとき貨物を運転す者が、
足らなくて誰か運転できる者はいないかと上級者
が探していた。このような時運転が出来ると役に
たつのだと言うことを始めて知った。

さて終戦は昭和20年8月15日、天皇のラジオ放送
によって全国に布令された。
目標を失った将校たちは呆然となって身の置き所を
うしなったのだた。その点若い兵士は家に帰ることば
かり考えているようであった。

しかし戦後の市街は焼け野原となって多くの浮浪者
食べ物を漁っている世の中であった。
家は焼け、多くの戦災を受けた人々が職も無く、食料
も無く餓死者が多く新聞報道で知らされたのだ。

私も熊本の親戚に居候を続ける訳には行かない。
熊本県は長洲町の製塩会社で働くことにした。当時
※一升、に塩五合の価格であった。塩は貴重な商品
であった。親戚の家に帰るときには塩とにがりを持参
してお土産としたのだった。

休みの日には熊本市に出かけて行って、下通りや駅
前の闇市に行ったものだ。その頃は朝鮮人が我物顔
で日本の警察も無力となり、治安が悪かった。
米は配給だけでは足りず、田舎に買出しに行った。
田舎の百姓天下の時代であった。米は中々売って刳
れず、薩摩芋を60キロ担いで売れるときもあった。

町では「りんごの歌」がヒットして誰もが口ずさんでいた
やがて岡晴男の「ハワイ航路」などが流行歌であった。

昭和21年10月、両親と姉が朝鮮より佐世保へ引き揚
げて来た。姉は大分の工場へ住み込みで働きへ、私も
働きながら英語の専門学校へと、両親が小さな家を買
う事になり、より進学を目指して上京に志した。

昭和25年3月、上の姉家族いる東京の大田区へ進学
を夢見て上京をした。

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コメント

ブログの書き込みが進行していますね。

v-14お元気でブログに、頑張って書き込みをされて居ますね。
甲飛予科練の記事、大変興味深く何回も拝見させて頂いて居ます。

当方、中学4年時に甲飛を受験いたしまして、京城で1次試験は合格しましたが、
2次試験を鎮海海軍航空隊で受けまして、終戦迄合格通知が来ませんで今思えば、残留引き上げで苦労して帰りましたが、入隊して居れば内地で除隊後復員手当てを貰い、苦労しなくて済んだのだがと、貴兄が羨ましく思います。

話は変わりますが、旧石田先輩の話では、飛行機搭乗訓練はされて居られた様に伺って居ります。

何か、空襲警報が鳴ると、機体の被害を受けない様に、他の飛行場に飛んで行って,退避ばかりの仕事をされて居られた様です。

此れからも、懐かしいお話をブログ上で拝見するのを楽しみにして居ます。太字の文色付きの文字

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