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海軍甲種飛行予科練習生

昭和19年4月1日、鹿児島県肝属郡垂水町の航空隊に
入隊することになり、前もって、釜山の連絡線波止場に
酒豪することになった。
定州駅前で加納が丘国民学校の生徒達の旗を振って
の見送りに挨拶して列車にのった。その折、東京で、
学徒出陣で陸軍に昭和18年に入隊した兄の下宿先の
おいてある荷物の整理に母が下関まで同席する。
下関で吸収方面と東京方面に列車は別れ、関門海底
トンネルを通って鹿児島に向かう。鹿児島市では桜島
連絡船が30分おきに目の先の桜島桟橋に往復がある
波止場から航空隊までは何で行ったか記憶に無い。

航空隊と言っても、飛行機は見当たらない。何か可笑し
いと感じたが、団体の中の行動は一人勝手に動けない
入隊の手続きで、七つボタンの制服、それも紺の服で
いよいよ予科練習生になったのだ。新しい分隊は甲乙
に別れ、甲の第一班に配属された。班長は優しそうな
二等へ居そうであった。

日が足すにつれ、この予科練習生の丙種は飛行科で
あるが、内容は「航空魚雷整備」であった。
パイロットを夢見て飛行予科練習生に応募したのだけれ
ども、何か煙に巻かれた漢字であった。
入隊の上、官製品を支給された以上、やめたとは言えな
いのだ。

6ヶ月の普通科練習生の始まり、朝は6:00起床、朝礼
海軍体操、学科、体育、甲班は12名x12の144名だ。
乙班と共に288名の分隊が結成された。
分隊長は海兵出身の山本大尉だったことは今も記憶。

朝礼は海軍体操の他、円陣で軍歌を斉唱しながらの、
行進、たいそうの時間には桜島までの遠泳には巨大な
くらげに出っくわしたことには驚いた。今で言う「越前くら
げ」のことだった。

航空魚雷整備の学科、実整備練習、班長の掛け声で
気合は充分、三ヶ月経った頃から巡検後の総員整列は
段々と恐ろしくなった。
今日は気合がたるんでいる、行動が乱れていたとか、
屁理屈をつけては巡検後「総員整列」の号令がかかる
精神注入棒(バッター)を全員が殆ど毎夜食うことにな
った。日によっては一本、二本、或いは三本と班長の
気分次第であった12人の班長の気まぐれで決まった

三月が過ぎると右左舷で外出が出来るようになった

母が東京の帰り、汽車の中で知り合った垂水町の女性
(半農半漁)の家に、将校宿舎の経理兵長が下宿して
いて、私を尋ねて来た。以来巡検後の総員整列が終ると
この兵長の将校宿舎の厨房に行くといろいろ将校の食
事の一部を食べさせてくれた。中学同窓の出口、進藤、
中村などを誘い他の練習生には味わえない喰にあり付
けた。そこへ定州の名産の「りんご」が班長宛に朝鮮から
送られて来た。それ以来カッターの時間はお前は舵を取れ
といろんな意味で楽な練習生訓練を過ごしてきたのだ。
考えて見ると一種の「袖の下」で他の練習生よりは楽な
訓練生だったと思う。こういう軍隊があるのだから戦争は
負けるに決まっているのだ。恥ずかしい話だ。

しかも七つ釦の制服を着て歩くと、町では優遇される。
まだ幼い顔をした兵隊さんだと思われたに違いない。

このときは早生まれの私は若干16歳であった。だが
飛行兵長に進級していた。

六ヶ月が過ぎて11月、「航空魚雷整備普通科」を終了し
実戦部隊に転属されることになった。その前に配属先の
希望地を書かされたときに「朝鮮元山航空隊」を第一に
「北海道」を第二に提出してきたが、「香取基地」に他の
20名と共に配属先がきまったのだ。
早速両親に手紙で知らせたが、11月の寒風吹きすさぶ
寒い日に「垂水航空隊」を出発して、東京駅から両国駅
に行き千葉県の銚子の手前の「八日市場駅」に着いた。

ここは正に航空隊の戦闘機や偵察機、雷撃機が飛び発
つ第一線基地であった。が基地本部で行き先を告げられ
た時、再度唖然としたものだった。
それは、「八日市場駅」の次の駅「干潟駅」から歩いて、
数十分のところにあった、この辺の台地状の崖に掘られた
壕の中に航空魚雷整備場があった。まだ完成されてなく
小さなトロッコで土壌が運び出されていた。が中には整備
が完了して基地の飛行機に積まれる様特殊のトラックも
おかれていた。
台地の間には木造の小屋的な兵舎(10人~20人位起伏
出来る)が一〇棟ほどあった。隊長、病舎、士官棟、医長
経理棟、食堂、厨房棟などがあり一応200人程度の兵員
が生活できる部隊兵舎があった。

昭和20年3月10日、東京の夜空はB29の東京空襲で
真っ赤に燃えていた。あくる日東京出身の者は一度東京
に帰り安否を見て来いと十数名が東京の家を確認に行っ
たが、何人かは家が無かったと言っていたのを記憶する

「香取基地」も米軍の空襲、機銃掃射などを受ける。

5月頃になると米軍が「九十九里浜」に上陸して来るので
は無いかと竹槍で応戦準備が始まる。今思えば滑稽な
話だが当時は真剣だった。

海軍では泊り掛けでの外出が出来るので、所謂下宿と言
って、基地の近くの民家に話し合いで泊まり先が決められ
る。私も中の良い同僚、「W,H,M君達」と「木村さん」と言う
大きな家(庄屋さん)に3,4日おきに泊まることを決めた。
右舷の木板と衛星用具とお土産を持って6:00頃兵舎を
出る。お土産は「しらしめ油」に「酒保物品」これは」大いに
喜ばれた。
16歳の坊やには衛生器具は必要無いので放棄した。
他の隊員では銚子の遊郭に行って淋病にかかった者もい
た。毛じらみは「水銀軟膏」で直ぐ治ると下士官が教えて
いた。予科練習生は皆真面目だった。

真夏の暑い日が続いたある日、広島に新型爆弾が投下
されたとラジオニュースで言っていた。新型爆弾とは一発
で富士山も吹き飛ぶと言う「原子爆弾」のことだと分かって
いた。
9日には長崎にも投下され被害甚大と聞かされた。

8月15日、重大ニュースがあるので正午にラジオニュース
を効くようにと放送局で何度も放送していた。
その日隊員全員も隊長舎の前で玉音放送を聞いたのだが
ラジオの音声が悪く何を言っているのか意味が聞き取れな
かったが凡そ天皇の「耐え難きを偲び・・」を聞き戦争は負け
たのだなと感じた。隊長も医長からの解説でやっと納得して
部屋に閉じこもった。考えもしなかった敗戦、ただただ呆然
とした記憶がある。それから一週間この小さな部隊はする
ことも無く、毎夜宴会に明けくれしたような思いが残っている













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