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朝鮮人の友達

定州の町は城外、城内の洞に分かれていた。日本人が居留始めたのは、多分日露戦争当時からであろう。我が家は、私の記憶する限り、4回、住み家が変わっていた。物心つかない頃の家は印刷機のうるさい音の中で両親が働いている横に寝かされていたらしい。真向えの「おかめ」と言う料亭、雑貨屋を兼ねた大家さんの家だったらしい。その前の家の前は定州の古株で実力者の「今城」さんと言う家も覚えている。三度目の家の前は「定源金融組合」の建物だった。隣は髪結いさんで同級の女の子「みっちゃん」がいた。そして小学校に入る頃、加納が丘小学校に入学したのは、上の姉が満州
の高等女学校に入学した年だった。学校の正門の前で、両親は文房具店と新聞販売店の他、レコード、雑誌、スポーツ具も兼て朝鮮人の若者が5人ほどと30歳前後の日本の大学を卒業した人も何人か顔を毎日見ていたような思いがある。
隣は「権医院」朝鮮の人の病院だった。他に魯病院がかかり付けでもあった。そして朴と言う人の大きな家には羽の根を切られた飛べない鶴が二羽飼っていた。父の叔母は「東江楼」と言う支那料理家を経営していた。その家は敷地が広く瓦を被せた塀が周りを廻らせていた。そこでその周りの朝鮮人の子供たちと戦争ごっこを毎日のように遊んでいたものだ。

夏は昼は38度くらいに暑くなる日は商戦人の子供たちとも撻川江に水泳にいたtものだ。
帰りは駅の前の吉田旅館で井戸の中に冷やしてあったスイカを食べさして貰うのがお決まりであった
機関区に行くと機関車の方向を回転する手押しの回転台をいたずらに回して遊ぶのは楽しかった。
冬は流れ川の氷上スケートに毎日暗くなるまで滑っていて、良く母親に帰りが遅いと怒られた。

小学校には高等科のクラスがあり中等学校に進まなかった人が少数学んでいて、朝鮮人の生徒も
いて機関士になる者がいた。定州駅からは平壌か安東に列車を引っ張って機関車を運転する機関助手になってたびたびその運転する機関車に載せてくれることがあった。
朝7:00頃定州駅を出発、11:00頃平壌か安東に着く、帰りは3,400:頃に待ち合わせをして機関車に乗り込み、定州駅に着くのは暗くなってからだった。顔が煤だらけとなり母親は洗濯が大変だと良く叱られたものだ。しかし機関車に乗って往復の線路状態、上り坂、下り坂は機関車が客車や貨車が多ければ多いほど速力が遅くなったり、石炭をくべてもなかなか力がでないで身体を踏ん張ることが多かった。戦後何時までもその坂を車で帰ってくる夢を見たが、1992、1992年北朝鮮に行って夢を実現した。

中学校に入学して、同じクラスに朝鮮人と支那人のクラスメートがいた。日本人の中学校に入学出来る朝鮮人の子弟は殆どが2,3歳年上が多かった。江界の医者の息子「金」は殆ど日本人と言葉も様相も変わらなかったが戦後は北朝鮮に残ったと聞いた。劉は人の良さそうな感じの生徒だった。朝鮮戦争の時、共産党に立ち向かって銃撃されて死亡、姜君植は新義州一のヤンバンの息子で父親は日本の国会で貴族院議員であった。本人はソウル大学を出て教授になっていた。
死ぬまで親日家であた。他には崔、金君などがいたが在学中肺病で若死にした。満州国人の谷は
終戦前それとなくいなくなってしまったことが思い出される。

近所に若い朝鮮人の青年がいて私が写生をしていると必ず来て絵を修正してくれたので何時も私の
絵は張り出された。知事賞を頂いたこともあった。
近所の同じく朝鮮人のお姉さんは中々の美人で京城の李華女子専門学校を出た才女であった。日本語は日本人同様の発音であったので誰も日本人だと思っていたようだった。

そういう訳で朝鮮の人にも日本人が好きな人、嫌いな人もいろんな考え方の人たちがいて、その人たちが今どうしているか尋ねてみたい。
北朝鮮に残った金は北朝鮮の海軍司令官になったと噂があるが確かめようが無い。そういえば私が
日本海軍の甲種飛行予科練習生に行く時、自分もお前と一緒に海軍に志望したいと言っていたことを思い出される。若し生存していればこの前北朝鮮に行ったときに知った退役将軍のように悠々自適の生活をしていると思う。でも80歳を超える人は少ないと聞いているので疑問である。


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