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旧制中学校同窓会

同窓会(旧制中学校)
私の通った中学校は、朝鮮北西部(現北朝鮮にある)中国
と北朝鮮の国境(鴨緑江)新義州の町にあった。
戦前の統治かにあった、中等学校は、日露戦争後しばらく
朝鮮総督府の武断政治で先ずは京城、釜山、元山などの
開けた町から朝鮮人子女子の教育のための小、普通学校
から始まったらしい。新義州の町でも先ず朝鮮人のための
高等普通学校、女子高等普通学校、農業学校、日鮮共同
教育の商業学校それから日本人子弟教育の中学校、高等
女学校と大正10年ごろから昭和初めにかけて創立されて
行ったそうだ。中学校の場合、大正末期の15年頃高等普通
学校の中に仮住まいから創立されて、50名の日本人と一割
の5名の朝鮮人子弟が入学した。それ以後、昭和20年の、
終戦の年に閉校になるまでに約20年続き、一期から二十期
まで約1,000人の卒業生が出た勘定である。

昭和20年の8月15日の終戦時に学校は閉鎖された殆どの
日本人学生は同21年の秋頃から日本に引き揚げとなり当時
の4年生だった17期生から日本内地の中学校に転向せざる
を得なくなった。学校の新制度で旧制中学校は、
高等学校となり、三年生で大学進学となる。

戦後は毎日の食料もままならず、飢えに苦しむ状態であった
日本の内情であったが、昭和27年に極く一部の卒業生に
よる同窓生会誌が発行されていたようであった。
それからはとびとびではあるが、消息の判った人々が集まる
ようになってきて、「新義州公立中学校卒業生同窓会」が全
国から集まって来るようになったと同時に毎年同窓会会誌が
定期的に発行されるようになったのだ。

私も昭和36年頃、画中会が集まるようになったことは、しって
いたが、40念頃仙台にから東京に戻って来て、同窓会の案内
があって、以来参加できれば出席すると言う状態になった。

若い内は、仕事に追われ、収入も貧しくその上、子供も3人と、
同窓会どころではなかった。
昭和44年、新宿に高層マンションの一室を求め、ローンに追
われる身となった、その上に47年又公団住宅の分譲宅を買
い足し更にローン支払いの苦痛を増した。

昭和53年、練馬の両親の家を倒し、ナショナル住宅を新築し
て両親、我々夫婦に娘3人の7人家族が住めるよう総建坪4
4坪のを新築したが、それでも生活は楽にならなかった。
その頃からどうやら、同窓会の案内にも応じることが考えられ
るようになってきたが、この頃から雑貨輸入卸売りを開業し、
ソウルでの同窓会が開催される機会に韓国に行くことに障碍
が無かった。在京の同期生が少なく、それまでクラス幹事を
引き受けてくれていたM君が肺結核で死亡、S君が商店経営
で、私が引き受けることになったのが、平成2年、鴨緑江周遊
旅行を企画しその翌年北朝鮮観光に同窓会で行ける事が出
来ると言うことになり、幹事を引き受けることになった。
新義州市内を散策できると言う、朝鮮総連関係の旅行社の世
話で義中会の有志者を募集し、門脇会長を初め40名の参加
者が5泊6日の日程で北京、丹東経由の観光を楽しんだ。

それからもう17年が経った。昨日、6月15日田町の居酒屋風
料亭で幹事会が開かれ出席してきた。
出席者は高齢の4期生以上の方々は90歳を超え、幹事も無
理な時期に来ている。最高年齢は5期の91歳であったが、こ
の人も最近連れ合いを亡くし、来月から有料老人ホームに入
られるそうだ。

最近は朝鮮の中等校の同窓会は出席者の減退で同窓会の
閉鎖が続いている。先月も我々と同じ地の女学校も最後の同
窓会を「帝國ホテル」で開催、最後と言うことで全国から120名
の会員が集まったと言う。流石女性は長生きで金持ちが多い

閉鎖した会はあるが同窓会が出席者皆無で有名無実の
同窓会もある。

続く
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