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新義州府そのⅡ

新義州と言う町は日露戦争時に当時支那国の遼寧省安東県まで来ていた安奉線とに繋ぐ朝鮮側の京義線の終点で鴨緑江鉄橋で結ばれて駅が川沿いに出来たが、新駅を建設して新しい「新義州駅」が出来て、それまで義州邑にあった平安北道の道庁を移転し、新しい町を作ったとのことである。

その昔、朝鮮の南の方から来た農民が鴨緑江(アムノッカン)の近くで田畠を耕して生計を立てていたが、鴨緑江の氾濫で貧しい暮らしを余儀なくされていたところ、日清、日露の戦争で、日本軍隊が来て、ただで土地を収用する訳に行かず、農民たちに当時朝鮮では土地の登記制度が無く、日本軍が「ここはお前の土地か」と金を与えて収用してその農民たちは皆金持ちになったそうだと子孫からそのような話を聞いたことがある。そしてその子孫たちが日本の高等教育を受けるようになり、中には
息子たちを日本に留学させて急に成金になって中には日本の国会の貴族院議員になった人も出た。

下流に龍岸浦と言う町があって、この町はロシヤが韓国との条約で鴨緑江上流の森林伐採の権益を
取り、その基地として多くのロシヤ人が開発した町である。
新義州から河口の龍岸浦まで多獅島鉄道(私鉄)が出来ていて多くの子弟が新義州の中等学校まで列車で通学していた。船舶の出入りに危険な濃霧を避けるため、河口に灯台を総督府で設置、三浦海軍少佐が多く障害を越え設立に貢献しその記念の「三浦タワー」がある。

新義州の町は駅を中心に街路が真っ直ぐに丁度京都の町に似て作られた町になっている。駅から正面に付きあたった所に国境警備の平壌の第7連隊の二中隊が駐屯、レンガ作りの隊舎があった。
町筋はアカシヤとポプラの並木道で、冬季の雪は少ないが、鴨緑江を超えてくる北風は実に寒くて
安東よりも冷えたようであった。


鴨緑江鉄橋は全長1,100mで中央付近から支那側よりの所に十字型の開閉する橋桁があり、船の運航が出来たが昭和7年頃から開閉を中止したのでついこの情景を見たことはなかった。
橋の中央は単線の鉄道線路で両側は人車道になっていた。この橋に限らず、国境は密輸で生計を
立てる人も多い。新義州の町の有力者は密輸で財閥になったと言う噂も聞いている。列車が支那側から朝鮮側に渡りきったところはスピードを落とすので、密輸品を抱えた朝鮮服を着た人たちが列車から飛び降りてくるのを良く見かけたものだ。それを税関や移動警察の人がつかまえていた。

十数年前北朝鮮に旅行した際に新義州には道庁、府庁、郵便局、女学校、知事官舎、税関、江岸線
東中校舎、道立病院、王子製紙工場、鴨緑江鉄橋新線など他の朝鮮各地の都市よりも多くの日本の建物が残っていた。駅舎は米軍の爆撃で新しい建物が少し東よりに建っていて「新義州青年駅」と
呼称が変わっていた。だがわが「母校旧新義州公立中学校校舎」は朝鮮側の理由でその場所にまだ行けることが出来ないでいる。存在の有無が確認出来ていない。

現在の北朝鮮の中国と接する「新義州市」は特殊地域で外国人は勿論朝鮮人でさへ自由には出入りすることが出来ない。ピョンヤンから国道を車で新義州に入ろうとすると南新義州付近の三橋川の橋元にある安全隊詰め所で検問を受ける。我々が許可を取るために新義州公安本部に電話をして許可が出るまでに一時間以上かかった。しかし新義州市付近の若い女性だろうか、屠殺下ばかりの犬2頭を荷台に積んだ二人の強制は目の前で詰め所の保安兵に声をかけて橋を渡り新義州に入って行った。顔なじみなのだろうと見ていて微笑ましかった。



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