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旅行回顧

考えて見れば若い時は毎日の生活を如何に収入を多くする
かばかり考えて仕事に夢中であった。家内と共働きは苦し
いながらも楽しい毎日であった。
長女が産まれ、次女が年子に生まれ、女房は子育てに専念
するようになったが生活は益々苦しくなったと思い出す。

仕事を良く変ええ昔の友人は「良く仕事を変えられるなあ」と、
侮蔑に似たような感想を言ってくれた。しかしその言葉には
特別に反感を持たなかったのは仕事を変えてでも収入を殖
やしかったのだった。学歴も中途半端、上京してコネも無か
った初めの頃は駐留軍、駐留軍が去ってからは民間企業
に職を求めたが、殆どセールス(営業)の会社にしか勤めら
れなかったのだ。それでも無我夢中であった。
昭和38年に東京オリンピックが東京で開催、その頃、家族
は三人の娘で5人家族になっていた。仙台の1年半、東京
に戻ってきてから住宅公団にすんでいたが、分譲住宅に
抽選で当たり新宿に住むことになった。毎月のローン5万円
ほどが苦痛であったが、又他の分譲住宅に当たったので4年
住んだいた新宿は貸家にして高島平に住むことにした。

両親が年老いてきたので、大泉の家を立て壊し、ナショナル
のプレハブ住宅を新築、両親と我々家族5人の7人の大家族
になった。上下二階44坪の大きな家となった。

平成4,5年両親は95,92歳の高齢で相次いで亡くなり、私
の仕事はささやかながら小さな雑貨輸入卸業を始めたばかり
であった。両親が亡くなる頃には業績も安定して、旧中学校の
同窓会にも出席出来るようになっていた。

1988年旧制中学校の同窓会が始めて韓国の「ソウル市」で
開催されることになった。出席者は日韓併せて100人を超す
盛大な同窓会になった。

1989年安東会の中国北京、丹東、上海旅行に加わり、翌年
母校同窓会の「鴨緑江周遊旅行」を企画した。参加人員は約
20名であった。2年置いて1992年、朝鮮国際旅行社の扱い
で「新義州訪問旅行」を母校同窓会幹事と企画、40数名の参
加を見て5泊6日の北朝鮮観光旅行を挙行した。勿論我が母
校のある「新義州市訪問」も兼ねて北朝鮮旅行である。


戦後初めて(50数年ぶり)に見る「新義州市」は他の都市より
も旧日本統治時代の建物が多く残っていて懐かしい光景であ
った。
1995年再度北朝鮮訪問旅行を企画、新緑会主催で北朝鮮
観光旅行を6泊7日の日程で挙行したのだが、肝心の新義州
市に入ることが出来なかった。33名の参加者は涙を飲んで、
帰国してのだった。
その時の旅行契約で、古山高麗雄、梨本丈樹氏との三人で
更に一週間の北朝鮮内観光を企画していて、残り一週間は
金剛山、新義州市を廻ると言うことになっていたのでガイドを
つれて陸路、金剛山、新義州市を廻ったのだ。おりしも北朝
鮮では国際スポーツ、芸術祭典を催していたのだった。

中国、丹東市、北朝鮮ピョンヤン市を訪ね夫々の地で有意義
な人たちと知り合いになった。
大きい文字
思いかけず北朝鮮は「新義州市」を目にして、感激してくれた
人々も何時も逢う度に感謝の言葉をかけてくれる。







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