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朝鮮西北部

1910~1945の間、日本は朝鮮を併合、総督府を置
いて武圧統治してきた。日露戦争の後の時代は知らな
いけれども、私が物心ついた頃は、町の中心は日本人
の権力が強かったのを見てきた。
町一番の実力者は日韓併合の頃、日露戦争が終わって
間もなくの警察は憲兵隊の支配下であったらしい。
その憲兵隊分隊長の位に当たる人が警察署長になった
と聞いた。小学校の頃はその実力者は老齢のため定年
で立派な家にお住み、家作を沢山持っていたようだった

小学校六年生だった頃その人は老衰で死に、町をあげて
の葬式は盛大であった。
察するところ日露戦争に勝利して日本が朝鮮全土を統治
することになったことは各地にそのような利益を得る日本人
が大勢いたのだ。しかし町は落着き1920年頃のような
「万歳騒ぎ」は起こらない秩序が保たれていたようで私も
なんとなく育ったのだ。

ところが日本の軍閥政治が始まり、満州事変、支那事変、
大東亜戦争と戦争に国民が勢い立った。今北朝鮮の政治
を見るようだ。あれから60数年、社会の科学も進みその頃
の事情とは違うが現代の北朝鮮を見ると日本の戦前、戦時
中の頃と良く似ている。

1995年に北朝鮮のかって住んでいた定州邑に予てから
行って見たいと思っていたことが実現できたのだ。
少年の頃、定州の町から平壌、新義州、安東県の間を、先
輩の機関車運転士に機関車に乗せて貰ったその区間を、
今度は平壌~新義州までいすゞのバンに乗せて貰って、街
道を往復したのだ。
汽車で平壌に行く際、定州駅で降りようとすと車掌がホーム
にも降ろさせない。駅舎の表側にはかって育った町がある、
どうしても町の中に入って様子を見たいのだ。
それが実現に漕ぎ付けた。
機関車に乗せてもらった頃急坂やトンネルがあり、その場所
をきおくしているかと言えばそうでもない。しかしおぼろげなが
ら、山々や川、鉄橋、トンネルなどおぼろげにおぼえているも
のだ。車で街道を走ったことは無いが、およそ街道の道筋位
は検討が付くかもしれないと思ったがやはり記憶とは違って
いた。良く夢を見たこの通り道である。60数年の記憶は全く
違っていた。

道路は少し大きな町の出入り口は干そうされていたが、概ね
砂利道であった。バウンドで車の天井に頭をぶつけることも
何度かあって、大きな川を渡る橋には欄干に日本の字が彫
ってあった。平壌から新義州まで210数キロと往復8時間の
車内は苦痛も感じた。途中休み場所もGスタンドも無い。

「金日成主席銅像」もあちこちにあって人民は頭を下げ礼拝を
しなければ不敬罪と言うことであった。昔の日本天皇崇拝と
同じことだ。
道路は狭くて砂利道だが、両側の並木道に桜、杏、桃、りんご
などの木が植えてあって、5月の気候と相俟って正に「桃源
郷」であった。
冬の寒さは零下20℃くらいまで下がり、時として-30℃を下
廻ることもあった土地である。降る雪こそ少ないが、10月末に
初雪があって以来翌年の4月まで雪の解けることはない。
正月用に搗いた餅も凍って槌で叩いて割る始末だ。
スケートリンクに張った氷も硬く倒れても水分が少ないので濡
れことは無かった。そういう自然の寒さだが、家の中は暖房で
暖かく裸でもおられた。

さて平壌(ピョンヤン)~新義州(シニジュ)まで少年の頃何度
か汽車で通った経路は車で初めて元京義線沿いにはしって
見る。
記憶よりも橋や坂は少なかった。峠などもあることはあったが
割合に平安道は平伏の少ない土地柄であった。
道路にはトンネルは一つも無かった。峠のような坂道は幾つ
かあったが起伏は至って平らで住民は過ごしやすいことだろ
うと思ったくらいだ。

新義州市の入り口に三橋川があって、その橋が新義州に入る
検問の30人位の保安隊員の詰め所があり厳しい検査がある
周りの部落から物産を運び入れる業者は顔パスだ。堵殺した
犬を自転車の荷台に積み二人の若い女性が笑いながら挨拶
をしながら通って行く姿は何処でも見受けられる。
何かそこに物語があるような情景だった。

一時間余余り待たされて、鴨緑江ホテルのロビーに来るよう
にと市の幹部からの電話でやっと車は橋を渡り南新義州を通
り抜けトロリーバスの架線沿いにしないに入った。鴨緑江ホテ
ルは一度前を通ったことのある場所で分かりやすかった。
暗いロビーで待っていると市の幹部が来て市内を廻ることは
禁止されているが特にその辺を廻って直ぐ出て行くようにとガ
イドに命令していたが、鉄道線路の北側の元王子製紙工場
跡を見たいと言うことで中に入ったが工場跡は殆どが4,5階
建てのアパートが数十棟ほど建ち並んでいた。

運転手が一回りすると帰路に行こうとするので市内を廻れと言
い市内の元繁華街の本町とおりに行き元道庁に突き当たり左
方に折れ元中学校方面に行こうとすると前に車止めがあって
引き返し税関通りから元平安神社の前の通りに出て行くと
黒服を着た男達が車で追い越しざまに運転手と話している。
この先行ってはならないと注意しているのだろうと感じた。
運転手は元道立病院の門の中に車の後部を入れ方向転換
して元の道に戻った後のは危険を冒しても強硬出来ないと
市内から退去することにした

と言う訳で市内を隅々探査することは初心の目的から達する
ことは出来なかった。
以上が新義州市潜入の経緯である。
「芥川賞作家古山高麗雄さん」とご一緒し彼の生家の前に
立たれることの出来た新義州潜入記である。








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