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定州邑そのⅡ

古来、平壌と義州間の要衝の地としての定州は西北に凌漢山、独将山などの山岳が起伏し、東南の地は遠く黄海に流れ注ぐ撻川江は邑内の東方を貫通していた。付近一帯は沃野に恵まれ米や大豆などの農産物に富み果樹の栽培に適しりんごの生産は年間二百トンに達した。定州は元高麗麻に属し亀州と称していた。李朝太祖が高麗元帥となり、元兵を撃破して朝鮮国王となった発祥の地で
定遠、鳥川、隋川とも言われた。義州街道の要地として守備厳重な城壁が残っていた。文禄の役(1592年)秀吉が朝鮮侵略出兵には宣祖は漢陽から西に逃げたが、定州では豪卓竜の屋敷に駕を止めたものの小西行長の追撃で敗軍となって西に敗走した。
平安北道の種苗場は寧辺種苗場から移転され、農事試験場と共に研究機関として明治41年に設置された。
又果樹栽培のりんごは明治44年から栽培経営者も増え作付け反数も増大した。定州の古跡として
明治37年の日露戦争における加納忠男騎兵中尉率いる7名の偵察隊が200騎のロシヤ騎兵隊に
遭遇、本隊の援護が着く前に全員戦士した忠魂碑が加納が丘にある。
この忠魂碑の30メートル西に隔てて、李朝太祖の戦功記念碑は高麗朝の末期に崔禹生が反逆を
企て元朝と通じ、その勢力は一時期王朝を覆さんとするほど協力で有った。李生桂は直将としてこの地に至り瞬く間にその徒党を討伐したと伝えられる(と碑文に刻まれている)

郭山平野は一望二千町歩に達し、日本から視察に来た人は皆その広大さに感嘆した。

明治41年朝鮮鉄道開通の際、京義線の平壌、新義州間の中間点として、燃料と水と機関車交換の補給地に選ばれ、以来交通の要衝地になり昭和14年に開通した水豊ダムへのへ平北鉄道のターミナルステーションで乗り換え地点となった。この平北鉄道の建設にはエピソードもある。それは水豊ダムの水力タービンがあまりにも大きくて線路の土手やトンネルの穴を大きく削って輸送したことである。又日支事変が始まると日本からこの京義線を使って兵員移動に毎日多くの輸送列車が定州駅を
通過したものだ。愛国婦人会国防婦人会の奥様方がボランティアで弁当の炊き出しに借り出されていた。

定州の町は人口約一万人の内、日本人居留民は鉄道関係の人を含めて1200人余り、朝鮮の人々は約8,9000人ほどだったと思う。支那人は野菜つくりの家庭が20所帯くらいいただろうか?
他に東江楼と言う支那料理屋に5,6人の若いニーやんがいたように記憶する。

町には定州郡の郡庁、邑事務所、裁判所、警察署、税務署、加納が丘小学校、朝鮮人子弟の為の
小学校が朝日、城東と二校あった。何れも校長は日本人で会ったように思う。
あと大きくは定州駅、鉄道官舎、機関区、鉄道グランド、平北鉄道、電気会社、農事試験場、畜産場
商業銀行、信用金庫、定州神社などあり、日露戦争関係の多くの旅館、料理屋など商業はさかんであった。この小さな町に旅館だけでも玉屋、おかめ、いろは、お多福、吉田旅館、他数軒とは多ぎた。

定州神社の祭礼は毎年盛大であった、仮装行列や神輿担ぎなど「東京音頭」の曲が鳴り響いたものだ。7のつく日は市場が開き、定州の町の周りの田舎からいろりおな物産を持て広場で市が開くと、
内、馬、豚などのほか野菜、器具、食料、家具など大いに賑わっていた。若者の朝鮮相撲、シーソー
ブランコなどの競技も賞金が付き子供はチェギなどの遊戯にかけていたものだ。






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