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妻(路江享年78歳4ヶ月)を偲んで

妻(路江)が去年の4月21日に浄土へ旅発って丸一年
が間もなくやってくる。昭和27年まだ敗戦の色濃かった
頃の銀座には駐留軍の兵隊が闊歩していた。
旧「松屋百貨店」跡の建物は中流連合軍兵士のための
物品販売所のPXに彼女はコンセクション(軍以外の民間
業者)時計修理の会社で受付の仕事をしていた。

午後5時には弊店、知り合って良く後楽園スケート場に誘
い得意のスケートを教えて仲良くなった。給料日には銀座
の「天竜」餃子店にも毎月必ず食事をしに行ったものだ。
スケートと言い、餃子と言い、戦前朝鮮西北部の鴨緑江畔
で生まれ育った私にとっては馴染みのものである。

彼女は戦時中両親が御徒町で米の問屋を営んでいたが、
戦時体制の折、食料統制で米問屋が出来なくなり父親は
静岡に疎開戦後間もなく亡くなったそうである。
印象は東京育ちにしては純粋な心を持った女性であった。
又江戸っ子の気性も持っていたように思う。どちらかと言う
と弱い立場にある者に対しては情をかけるやさしい女性で
楽しい人柄でもあった。何時しかこの人と生活を共にしたい
と言う気持ちが募っていった。

昭和28年4月5日北区役所に入籍の届けを二人で出した

北区稲付町に部屋を借り共働きで銀座に有楽町駅を降りて
PXの職場に通い始めたがこの「松屋ビル」にあるPXは閉鎖
となり、私は朝霞キャンプPXに職場を変え、彼女は王子TO
Dに同じ仕事を続けることになった。

熊本から両親が東京に移住することとなって、大家の敷地
にある「愛子さん」の家を買い、又上の姉の夫の教員組合の
分譲地を70坪を買い、バラックのような家を新築して、一緒
に住むことになった。路江が結婚以来貯めた20万円をその
家敷地のために投資したことを記憶している。

昭和31年、長女セツ子、32年に次女あつ子が生まれた。
そして駐留軍も徐々に引き揚げ、私設返還と共に仕事も変え
なければならなかった。
私は、自動車大型運転免許証を持っていた関係上、二世の
経営する米車輸入販売「メトロポリタン エージェンシーズ」に
営業マンとして入社したがかの有名な小佐野賢治の「国際興
行㈱」田町営業所の社員となった。
だが営業成績が良くなければ、収入も少なく、従って会社の
仕事以外の、外車販売も個人的に手を出してしまった。
新車を買って貰う為に下取りを40万円と決め、下取車を50万
円で神田の顧客に売ることの契約を交わし、登録を済ませて、
代金と引き換えに客の待つところに行き、いざ代金を請求した
所、金が無いのでこの家の権利書を代金の替りに用意したと
言う。家の権利書など分からないから約束通りの残金40万円
を頂きたいと言ったが屈強な男4,5人でもう登録を済ましてあ
るからこれで決済してくれと言う。泣き泣き権利書を受け取っ
て直ちに権利書の正当性を確かめに登記所のある横須賀に
行き確かめた。確かに50坪の土地と50年以上経った古家は
あったとりあえず、下取り代金の40万円を支払い、その古屋
を売って借りた40万円を返さなくてはと女房と子供二人を連
れて横須賀に転居した。その家の前に海上自衛隊のトップ
の方が住まわれていて大変お世話になったことは終生忘れ
得ない。国を守る最高の地位になられる方は流石に普通の
人とは違うと思った。


土地ブームが来たとき、お金さえ持っていればあの家は売ら
ずに持っていれば50万円では無く、数千万円に綯っただろう
にと女房と二人で嘆いたものだ。

そのように度々外車販売で失敗を繰り返したので、英語百科
事典の販売会社に変わることにした。
オールコミッションの会社だが販売が無かったら無給と言う危
険な仕事だったから女房には月給20万円と言って安心させ
万事うまく販売が出来たので普通のサラリーマンより多く生活
費を妻に上げることが出来たのは綱渡りの仕事だったからだ
ろうと今思えば冷や汗である。

この仕事も約8年ほど維持できた。それからは職業が容易で
はなかったが、昭和53年東大泉の70坪の土地に両親と同居
してすむ家を新築することになったので板橋の公団住宅を2,
500万円で売り、500万円を資金に貿易を始めることにした。

この頃は三人の娘達は二人は大学を終え、三女が大学生生
でアルバイトに夢中であった。
雑貨輸入販売卸業の仕事は初めて5年間は金の回りが大変
であったが5年を過ぎる頃から業績は安定してきた。がしかし
毎日高速道路を利用して遠くまで納品に明け暮れであった。

20年の経験は業績の発展と信用を生み、家内を連れて海外
旅行にも行ける身分になった。カナダ、フランス、英国、北欧、
東欧の他オーストラリヤ、ニュージランド、イタリヤ、ドイツの
他中国東北部、北朝鮮には同総会で2度第二の故郷、新義
州、定州に行った。

韓国、旧満州には10数回も仕事を兼ねて行き少年時代の友
人にも会って来た。

三女が自分で見つけた相手と結婚して、その相手が是非貿
易仕事をしたいと言うので後継者育成の意味で営業をする
ことになったので家の近くに土地を買い、倉庫の上階に自分
達で家を建てなさいと、二階の三分の二と三階に三女夫婦
の住まいを、一階と二階の三分の一を倉庫と事務所と新築
したのが平成8年であった。
このときの土地代金には妻路江は4,000万円の資金を拠
出してくれた。

平成14年、妻路江は自転車で踏み切りを渡る際、小さな子供
がよちよちと前に出てきてそれを避けるために横転して左脚の
複雑骨折で大手術と」なり入院2ヶ月後普通に歩けなくなった
以来平成15,6年は度々の入院、ひいては軽い脳梗塞で救
急車で運ばれて入院したこともある。心筋梗塞も併発、散々で
あった・平成16年三女が離婚し、会社を閉鎖することになった
倉をリホームし、東大泉の家は8戸のシングルアパートメン
トにした。リホームした家に4年妻は脳出血で倒れ、入院後
58日目に冥土へ旅発った。78歳と4ヶ月であった。

新宿のマンションの一室は毎月家賃を全部妻に渡してきたが
全て貯金していた。常に小さな小売商売をしたいと願っていた
が、適えられずに、しかしこの半年ほどは世界旅行も出来たし
温泉旅行にも行けたし私は幸せよと何度も言っていたことが
心に残る。

平成20年6月、近くの浄土真宗のお寺に両親の墓を改装し娘
達や孫達が何時でも行き易い様に埋葬してある。
三月二十九日には妻路江の一周忌をお寺で家族、妻の兄、
姉、妹、弟嫁達が集まって(14名)法要を営んだ。

妻路江の弟(浩二)が亡くなって、5ヶ月後、引きがねとなった
と思う











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