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人生八十年

平成21年3月29日で満八十一歳の誕生日を迎えた。
80年と言えば長くもあり短くもあった。省みれば我が
人生81年は後悔することばかりで、何をやっても中途
半端な人生であった。

1928年日本が統治していた朝鮮西北部で生まれて
小学校に入るまでの幼児期は何も記憶していないが、
我が家は真面目な父親の小さな商店を経営する事に
よって、祖父、母、姉二人と兄の家族構成であった。

両親は小さな町で京城日報、朝日新聞、毎日新聞の
支局及び販売店を営み、兄弟姉妹の4人を育てていた
働き者で、町の日本人会では信用のある人物であった
同時に朝鮮人の教育程度の高い人たちとも交際があり
戦後も引き続き交際が続いていた。

さて、私は6歳で日本人子弟教育の小学校を6年間、
中学校は商業学校に行っていた兄と同じ下宿で2年間
中学校4年生を終了すると共に、海軍甲種飛行予科練
習生として鹿児島航空隊に入隊、一年半後日本の敗戦
で、親戚のいる熊本市で家族の朝鮮からの引き揚げを
待っていた。

昭和21年10月家族の両親と下の姉、結婚して赤子の
いた姉夫婦が帰国した。
両親と姉の4人で、熊本市の健軍と言うところにバラック
の家を求め、やがて私は東京に姉を頼って出て来た。

上の姉夫婦は義兄が小学校の教員で、都営住宅に住
んで子供は二人になっていた。
私は手っ取り早く、生活が出来る駐留軍の第五空軍に
職を得て、同じ駐留軍の職場を転々とした。
銀座「松屋デパート跡」のJCE(米軍PX)で勤務、家内
の路江と気脈が遇い、共に生活することになったのは、
昭和28年4月であった。

貧しいながらも、二人で将来を設計し、目標に向かって
お互いに切磋琢磨し共働きながら一生懸命に働き貯金
を心がけたものだ。だが基本の技術が無い私は色々と
働く会社を定めることが難しかった。
昭和29年両親が熊本より子供三人がいる東京に生活
の場所を変えて、練馬東大泉に土地70坪とバラック的
な家を新築して一緒に住むことになった。

昭和31年、32年、35年と三人の娘が産まれ、36年に
板橋区の中台の東京都住宅公社の住宅に5人で住む。
仕事はアメリカの百科事典「アメリカーナ30」の訪問販売
の会社に勤め、成績が良かったので、仙台支社に配属
され、次いで二年後、大阪、東京本社と転勤、昭和44年
新宿大久保のマンションを購入、保証人は専務の楠本氏
に頼んだ。昭和47年高島平公団住宅に積立分譲に当選
ここに4年住み、昭和534年、両親の住む、東大泉の家を
新築立替え、両親、と我が家族5人の7人が住むことにな
った。

私も50歳になり個人事業を目指して、訳も分からずに貿易
したいと思い、オーストリアからスキースーベニアの輸入を
試み、はて?何処に卸せば良いのか迷ったが、高速道路
のサービスエリアに見本を持って駆け回った。
関越自動車道の「上里エリア」の売店責任者から電話が入
り納品するようにと声がかかった。他、東名道路、東北道路
など各サービス、パーキングエリアを回って少しづつ取引納
品が出来るようになって来た。初めの一年間は一ヶ月30万
円ほどの売り上げしかなかったが、徐々に売り上げが増え、
年間の売り上げが1000万円を超えるようになったのは3年
後であったやがて年間6,000万円を超える頃には家内も共
働きを止めて手伝うようになって、彼女の意見は大変貴重
であった。

この仕事を始めて東北の蓮田で夏の忙しい時に日航機事故
が発生、消費税が3%になりシールを付けるのが大変だった
それが数年後5%に上がり徹夜でシールの付け替えをやった
平成16年、娘婿の手伝いで750万円の詐欺に引っかかって
、しかも道路公団の方針が変わって殆どの業者が業務を続け
られなくなり、わが社も数十社の取引先の要請もあって会社
を閉鎖することにした。三女の娘には家庭崩壊をさせて悲し
ませたのでその労苦に生活を支えたいと思っている。

仕事を辞めて4年、倉庫を改良して終の棲家となった家内の
霊に残り人生を供養に明け暮れたいと思っている。








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