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日本一小さな旧制中学校

日本に併合された旧朝鮮は、京城府に朝鮮総督府を置き、教育部門も小学校から中学校、専門学校、大学校と朝鮮人教育に日本人居留民の教育の学校も次第に増設されていた。
新義州公立中学校は1925年」(大正14年)に開校された学級1クラスの日本で一番小さな中学校であった。私は15回生、昭和15年入学の軍国少年時代の申し子と言える。

クラスには入学時5名の朝鮮人子弟と満州国人1人を含め55人が入学した。翌昭和16年に大東亜戦争が勃発、益々戦時色が濃くなり、17年頃から陸海軍からの志願兵募集が多くなり、18年の終わる頃、海軍飛行甲種予科練習生に応募4年終了で海軍航空隊に入隊することになった。
55名のクラス人員の中から半分の20数名が日本内地にある海軍航空隊に入隊したものだ。
学徒出陣で静岡磐田の電波部隊にいた兄(正)からの手紙には応募するなとの忠告があった。
しかし当時の学校の忠君愛国の雰囲気としても応募せざるを得なかった。

尤も、中学校に在学していても、夏休みは一週間の勤労作業を強いられ、軍事教練の時間が日増しに増え、映画館、食堂、国境を越えての満州側には行くことも許されない状態であった。
朝鮮の冬は鴨緑江の水面も厚い氷で重量のある車両も走れるほどの寒さになる。
新義州と対岸の安東間は屈強な支那人が漕ぐ橇で往復出来る。行きは10銭、帰りは追い風が理由
の5銭であった。満州側は満鉄経営のヨーロッパ式の様式をもったスマートな都市である。
加えて、白系ロシヤ人の多く住むまちでもあった。それに比して朝鮮側の新義州の町は、所謂、日本式のドンくさい町で田舎風情だった。元は道庁所在地の義州邑から鉄道京義線の駅が出来た新しい
まちで日本人が作った町と言えるだろう。京都のような碁盤の目の町筋がポプラの並木と共に美しい
町でもあったが、日本人居留民は約一万人、朝鮮人が約3万人、に支那人を含む外国人が4,5千人くらいであっただろうか、主な建物は、道庁、府庁、駅ビル、税関、郵便局、警察署、道立病院、鐘紡、王子製紙工場と社宅、守備隊や営林署に旅館、バス会社など結構大きな建物があった。
なんと言っても「鴨緑江鉄橋は大きな建造物である。鉄橋を歩いて、豆タク、夏はプロペラ船、冬は橇、或いは軽便汽車でと税関の検査を通って自由国境を往来出来た。
あれから70年近くも時は経ってしまった。1992,1995年の二回この新義州の町を訪れたが、昔の面影は少ないが朝鮮の他の年から見ると日本時代のインフラが残っている方だ。

その時のわが母校、新義州公立中学校は同窓会の本部を東京に置き全国に会員が300名近く元気で生活している。
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