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朝鮮の日本人居留者

朝鮮は日清、日露戦争後の明治40年(1900年)頃から
日本人居留者が入植して来たらしい。
まずは朝鮮総督府が出来て寺内元帥が総督となった。
以来総督は陸軍将官が殆どである。台湾は海軍将官の
違いだろう。

日本人の職業も色々で、総督府を初め、13道の知事、
府(市)、郡、邑、洞、里などの行政区分に分かれるが、
府は府伊(フイン)、郡は郡守と言う。
昭和15年頃は、道に知事、府伊、郡守などの長に朝鮮
の人が何人かいたようだ。
朝鮮人の級友に国会の貴族院議員を父親に持つ人もいた

日本人は行政の役所、学校教員、警察官、鉄道員、研究
機関職員などと並んで多くの朝鮮人も同等に採用されて
いたようだ。
日本からは初めは軍隊に付随して各土地に商売を始める
人たちも多く、平安北道では、新義州、定州、江界、宣川
亀城、泰川、鴨緑江流域の国境都市などに分散居留して
いたが、大方朝鮮人9に対し1あるかどうかの人数だ

日清、日露戦争の後、どちらかと言うと、日露戦争後には
戦役で、陸軍部隊にいた兵士が、そのまま日本に帰らず
所属の部隊が駐屯した地点で、警察が置かれる前、警察
の職務を例えば憲兵隊の下士官が長となって、その地区
の治安のため残ったと言う人もいたようである。
警察はあ朝鮮人、日本人商人などの治安や統治に役務
を尽した。だが大正9年(1922)例の朝鮮独立運動3.1
騒乱が起こり、定州も例外では無かった。
丁度折りしも、父は定州に腰を落着かせるべく、印刷業を
開業するために熊本の印刷屋に修行に半年程帰り、また
妻(母)を」娶る用意にこの運動の起った際には不在だった

小学校は朝鮮人子弟の教育の普通学校、日本人小学校
が開設されたが、朝鮮人普通学校の生徒収容には学校数
が足りなかったので後、2,3校増設されたのは昭和15年
の頃であった。

定州駅の平壌寄りの駅が古邑と言って、昔からの朝鮮人が
開いた「五山学校」と言う朝鮮人の間では有名な中等学校
があった。朝鮮民族は日本人以上に子供教育は熱心だ。
そして先生(ソンセン二ム)に対する敬愛の念は日本人所
では無い。これは儒教の教えから来た支那系の文化である

北東アジア民族(支那、朝鮮、日本)は所謂、箸文化民族
として、南方民族から見ると教育的レベルが高いとされる。




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