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朝鮮人の友達

小学校は日本人ばかりの全校生徒220人、一学年で男女
35名前後、教員も校長を含めて7人であった。
尋常科6年と高等科は複式学級で数人の朝鮮人の生徒が
いたような記憶がある。朝鮮人の生徒は2,3歳年上の者が
いて既に結婚している者もいたようであった。

中学校は一学年、55名の内、一割の5名が朝鮮人であった
これは各学年も同じ定数だった。
朝鮮人学生は日本人学生と違って、入学試験は採用数が
5名で応募者は十数倍だから難関を突破して入学して来た
者ばかりであったにで全員成績が良かったような気がする。

その内の一人は乞う江界出身の医者の息子だった。名前は
日本名を「高村治平」と称した。超鮮名は「金○○」(北朝鮮
に残留したので名前は明かせない)
噂によれば北朝鮮海軍の司令官になっていたそうだが真実
は判らない。入学試験以来の知り合いで4年生の時、私が
海軍甲種飛行予科練習生に応募したとき俺も一緒に行きた
といっていたことを思い出している。だから朝鮮の海軍に入っ
たのではないかと推察している。だがもう80歳以上の高齢
だから生死不明である。(当時、日本海軍は朝鮮人の採用
はしていなかった。)

彼は顔も言葉も朝鮮人離れしていて日本人かと思った位だ
渾名は「金太郎」
そして朝鮮人特有の頭の天頂に十銭玉のような禿跡も無か
った。察するところ彼の父親も日本の医学を学んだ医だった
ので恐らく日本人インテリ同様の生活をしていたに違いない


もう一人の同級の仲良し学友あh「劉元国」と言って、終戦後
ロシヤ軍が新義州に駐屯した時、反対運動の学生リーダー
をやっていて、朝鮮共産党の銃撃を受けて死亡した。人の良
さを感じる誠実な学生であった(彼の二年下級の実弟の話)

更にもう一人の朝鮮人の学友は、新義州府の大金持ちの四
男であったが、旧水源農林専門学校(ソウル大学農業科)に
進学したが、あまりにも家が屋ンバンであった為に北朝鮮か
ら追出されてソウル市で高等学校の教師になっていた。19
90年再会度々来日するようになって昭和天皇崩御の時は
宮城記帳に参内した。父親は戦前の日本貴族院議員だった
そして彼の4人の兄弟は皆んな母親が違っていた。
この話は直ぐ上の兄(4年上、京城帝国大学英語課在学中
終戦、GHQに勤務後、アメリカ籍を取得、CAIに勤務)から聞
いたのである。

一年下級の「李○○」は中学三年生の時、少年戦車学校に入
学終戦後韓国に戻り、韓国士官学校に入学(第8期)アメリカ
にも留学して朝鮮戦争で戦車隊小隊長として部下を率いてい
たが、敵の銃弾が頭を掠り名誉の戦傷者となり、陸軍大領(
大佐)の時定年で将官に昇進、日本で同総会が或るたびに
出席している。父親は九州大学法学科出身で統治時代、
平安北道の検事であった。

去年の同窓会は東京で開催され、女学校の会員であると言う
韓国の女性が参加していたが、自己紹介で(私は定州の加納
が丘国民学校から新義州の女学校に進学した)とのことで、
不思議に思い、彼女から詳しく経緯を聞きに彼女の籍に行き
聞いてみたら父親が定州の税務署の署長をしていたとのこと
今まで知らなかったが、朝鮮の人で税務署長になられた人の
話は初耳であった。私より二年下級の女子生徒の名前を記憶
していたので間違いないと思ったそう言う人も世の中にはいる
ものだ。その後ソウルから手紙、電話が来て懐かしげであった



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