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旧制中学生時代

昭和15年(1940)晴れて、新義州公立中学校に入学
定州の町から見ると、新義州府は平安北道の道庁所在
地だけあって大都会であった。まあ京城や平壌から見る
と市電も無いし、小さくはあったけれども、私にとっては、
希望の中学校生活が始まる、大きな町に感じた。
幸い、5年上の兄が先に下宿生活をしていたので、寂しく
は無かったけれども、最初の一年間はホームシックになり
土曜日が来ると汽車で定州の我が家へ帰ったものである
それは、大叔母からお小使いを足してもらう為でもあった。

夏休みは8月1日から20日までであったが、白馬と言う
田舎の道路整備に勤労作業が一週間ほどあり、休みに
入る前であったので、20日間の夏休みは短かった記憶
がある。
夏休みは、二年上の鉄道機関士になった先輩に機関車
で平壌や安東県まで乗せて貰ったものだ。
往復6時貰間~8時間かかるので朝早くでても暗くなって、
帰宅、煤だらけになって帰ってきた顔を見て母が「どこに
行って来たの?」と訝しげであった。トンネルに入ると顔が
煤だらけになる、安東までは110㌔、平壌までは120㌔で
あったが坂あり橋を超え、トンネルは両方とも10前後近く
あったような気がした。坂を上るときは釜に石炭をくべても
中々力が出ない。速度が落ちるので歩いても追い着く速度
である。戦後は良くこの情景を夢に見た。
まさか、この夢を実現できるとは思わなかったが、平成4年
夢が実現した。

中学に入学した冬、同級のTと日曜日、安東県に遊びに
行こうと鴨緑江河畔桟橋から出る支那人の漕ぐ「橇」に
のり一人10銭を払うのだが、Tは帰りは俺が払うから行き
はお前が払えと言うことで、先に20銭を払った。安東では
「ビクトリヤ」ロシヤレストランでピロシキを注文して食べた
思いがある。鎮江山の展望台など見て帰りも「橇」に乗り
Tが払う約束だが、二人分10銭しか払わない。訳を聴く
と帰りは追い風だから漕ぐ力も半分なので、料金も半分
だと言う。以来誰かと乗るときは帰りを払うことにすると
思ったが、昭和17年頃から鴨緑江の水面は全く凍らな
くなったのだ。

ある日同期のNと支那料理を食べに支那料理屋に入って
食べている最中に、N教師ひ見つかった。翌日母親が呼び
出されて「停学一週間」と罰を言いつけられたのだ。
安東には行ってはならない、映画館にも父兄同伴で無いと
行くことはならぬと言う校則があって、現在の教育では考え
られない罰則があった。

二年生の昭和16年二学期に寄宿舎「請和寮」が学校裏手
に出来て入寮した。寮長は5年生の「山上さん」だった。
舎監は教員の田中、泉、戒能、別所さんたちが交代で宿直
されていたような記憶が残っている。
12月8日朝の朝礼で泉先生が今朝帝國陸海軍の部隊が
真珠湾、マレー沖で戦闘に入って多大な戦果を揚げた。
と訓示があった。
18年の二学期、中学から幼年学校、海軍甲種飛行予科練
習生になられた岸、望月両先輩の「俺に続け!」の講和が
講堂で全校生徒に話された。

昭和19年4年生の時、海軍甲種飛行予科練習生の募集が
ありクラスの半数以上が応募した。試験は南の「鎮海海軍
基地で行われ、新義州から三浪津乗換えで24時間位費し
確か基地に一泊したような思いではある。帰途は三浪津で
駅前の朝鮮そばやで温麺を食べたが冷麺よりも旨くない。
定州の冷麺は発祥の地と言われるくらいで、牛の畜産では
最高であるために全鮮市であった。キムチと言い、牛肉と言
い、日本内地から来て食べた人は最高と賞賛していた。
定州には総督府の農事試験場、畜産試験場があって、職員
が研究していた所為もある。

昭和19年、中学4年生終了で「海軍甲種飛行予科練習生に
合格の通知が届き、4月1日、鹿児島県垂水航空隊に入隊の
ため定州を出発、母親は東京の兄の下宿にある荷物の整理
のため下関まで同行した。鹿児島は桜の満開であった。
櫻島は鹿児島市から見ると偉く大きく見えたものだ。





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