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朝鮮時代(1928から1940)

道庁通り(突き当りが旧道庁庁舎)
1928年と言えば昭和3年、世界大恐慌が翌年の昭和
4年であったから、その頃生まれた私はその時の状況は
全く知らない。
物心がついて、記憶に残っていることは、5,6才頃から
の断片的なことだけだ。

祖父は無学で(父の話)誇大妄想者だったらしい。私が
小学校一年生の頃は裏の離れ部屋に一人でいたが、
母が食事を運んでいたことは覚えている。
古希とか喜寿とかと言っていたから70歳なかばだった
らしい。良く父からお金をせびって九州の別府温泉場に
行っていた。その祖父の妹も同じ町にいて、明治の終り
頃熊本から三人の仲間達と日露戦争の軍隊の後に付き
あとから来る商人や官吏を相手に旅館業を経営していた。

その大叔母は私の祖母(祖父の妻)が早くに亡くなってい
たのと、子供がいなかったので、私たち兄弟を可愛がって
くれた。連れ合いに先立たれて、甥である、父の助けを借
りて、その旅館を支那料理屋に変えて、当時支那国から
支那人の王さんを始め5人ほどの若者と一緒に支那料理
屋を営業していた。
お陰で私は小さい時から支那料理ばかり食べて大きくなっ
た。
支那そばは勿論、八宝菜、鯛の丸揚げ、焼き、水餃子など
ワンタンに至るまで支那人と生活を共にした位だ。
支配人の王さんは日本人の女性を嫁にしていた。それは
満州でお金を稼ぎ損なって本国の日本に帰るとき朝鮮に
入れば日本に帰ってきたような気持ちになるそうだ。
しかしそこからはまだ日本の土地までは汽車と連絡線に
乗り継がなければならない。かなりの女性が着物や持物
を売ってお金をくめんするが芸者になる者も多い。
昔の写真を見ると大叔母の「長崎屋」旅館にはそのような
日本の着物を着た若い女性が写っている。

朝鮮の西北部の町は日露戦争後、多くの日本人コロニー
が都市を開発してきていて、小さな日本人社会を作った。
僅か日本の統治は36年間に過ぎないが、鉄道、道路、
電気、学校、病院、植林、農業、水利、などのインフラは
朝鮮の発展に貢献している。

我が定州の町でも日本人人口は、1,200人位で、学校
は朝鮮人の為の普通学校は三校ほどに増えた。日本人
の小学校は全校生徒220人ほどの小さな小学校が一校
中等学校進学は、平壌、新義州、あるいは満州の学校へ
進んだものだ。

又私が生まれて住んでいた町「定州」は京義線、平壌と
新義州の丁度真ん中の地点にあり、朝鮮鉄道の機関区
があった。釜山から北京、満州里までの特急列車も停車
して機関車を交換又は燃料(石炭)水の補給をする所だ。
どんな特急でも5分から15分は停車す。普通列車なんか
は30分以上も停車している重要な駅であった。

鉄道官舎があり、7,80世帯に独身寮が3棟あった。
日本人の官公署には多くの朝鮮人職員もいたが、収入は
日本人の半分位と聞いていた。日本人は日本内地から来
るのに「薪手当て」「寒冷地手当て」と言うものが貰えて日
本での給料の倍近くももらえたらしい。
家族を養って行く朝鮮人よりも独身の日本人若者の方が
収入が多いのだ。しかもレベルの低い日本人は朝鮮人に
対して傲慢であったのだ。戦後は主客転倒、今までの上
の地位にいた日本人は反対に殴られ追いだされて泣いた

小学校卒業して中等学校に進学して行く者が約半分位と
高等小学校(二年間)に行くものとが半数に分かれていた
高等小学校を出たら、男子は鉄道員、女子は家事手伝い
又は電話交換手と田舎と言う所為もあろうが教育しない家
庭が多かった。個人や家庭の考えにもよるが、朝鮮に行っ
て一発当てようと言うひとも多かったのではなかろうか?

我が家の隣家は「権医院」と言う朝鮮の人の町の病院で、
「魯病院」の両方の医者に診てもらったこともある。
両先生とも日本語は達者で信頼の置ける医者であった。
近くに「朴文圭」さんと言う「ヤンバンサラミ」がいて、邸宅
の庭に飛べない鶴が二羽飼っていた。大叔母が当時お
金を出資して毎月¥20-の利息を貰っていたようだった。

私の小学校卒業は昭和15年3月、第31回生で逆算する
と第一回生は明治38年である。日露戦争の勝利した年で
あるが、もうその時代には日本人コロニー達は朝鮮の果て
まで進出していたのだ。
次回に続く・・・

1992年新義州中学校同窓会で新義州市訪問旅行を催した








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