スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

新義州府

昭和15年、12歳の時、生まれ故郷の定州加納が丘小学校を終え、晴れて新義州公立中学校に入学することになった。
5年年上の兄(正)が新義州公立商業学校の4年生で同府内に移動警察に勤めていた下宿をしていたので同じく一緒の部屋に同宿することとなった。
昭和15年4月8日だったと記憶するが入学式には母が定州から共に新義州の福岡旅館に投宿して
入学式に付き添ってくれたことを昨日のように覚えている。そして唯一の母方の親戚が本町にいたが
定年で熊本に引き揚げた跡の家に復従兄弟の晴江さんが新婚で残っていた。

入学式では55人の新入生が並び、朝鮮人の人が5名と満州人が1人、49人が日本人指定であった。その中では新義州以外の地方からは4,5人いたような気がした。
4月はまだ桜の花も咲かず、朝夕は多少寒い気候だったので、制服は小倉服で制帽の記章が光っていた。夏服は8月からであったが「霜降り」生地の制服だった。翌16年、二学期からは校舎の裏に
寄宿舎が出来て、下宿から移転した。同学年では浅野、村松、石田、中村、田頭、に朝鮮人の金東旭の7人だったと記憶する。12月8日朝礼で舎監の泉先生から連合艦隊が真珠湾を攻撃、戦争に
入ったと訓辞があった。

直ぐ上の姉(さだ子)が鴨緑江を超えた満州側の安東市の町の満鉄経営の高等女学校三年生に在学していて寄宿舎にいたので、当時中学生の父兄同伴でなければ禁止されていた国境を越えて行くことは出来なかった。しかし新義州育ちのお坊ちゃんで同級生と意気投合してプロペラ船、冬は橇で
たびたび行くことがあった。安東市は朝鮮とは違った外国風情があり、多くの白系ロシヤ人が住んでいた。満鉄経営の満州鉄道、病院、三井物産など異国情緒があったものだ。
ビクトリアと言うロシヤ人経営のレストランではアイスクリームやピロシキなどが上品な食べ物として
魅力があった。帰りは禁制の食財、貴金属、酒類、遊戯製品など子供であった中学生には税関検査
が免除されていた関係上何でも大人に頼まれれば買うことは出来たものである。

特に異国情緒のアカシヤ並木の路をマーチョ(馬車)で徘徊することは楽しみであった。ロシヤ、支那料理などの新義州府には無く、教育監視からも逃れる愉快さもアブノーマルであったことは歪めない




スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。