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定州邑

私が生まれた「定州邑」と言う町は平安北道の道庁所在地「新義州府」から約110k程京義線で平安南道の平壌府に寄った地域にある。丁度中間点にあって機関車が燃料や給水を補給する最良の
地点であった。後年(昭和14年ごろ完成した「水豊ダム」への乗り換え地点」でもあった。

定州郡の郡庁があり、人口は日本人が約1,200人位、朝鮮人は約10,000人に支那人が20世帯くらいの小さな町であった。
郡庁、邑事務所、警察署、税務署、農事試験場、畜産場、機関区、駅、平北線ターミナル駅、日本人
小学校(加納が丘小学校)、朝鮮人子弟教育の朝日、城東小学校があった。
鉄道は駅関係、機関区で鉄道官舎(4,50棟)に独身寮(南山寮)があって平安北道では新義州に次いで日本人の多く住む都市であったように記憶している。

小学校は私の卒業が第31回だたtから逆算して第一回卒業生は明治38年となる。明治38年は
日露戦争真っ只中に日本人居留民がいたと言うことになる。
日露戦争で斥候として7名の兵士を率いロシヤ軍と戦い戦死した加納忠雄騎兵中尉の忠魂碑が
加納が丘にあって良くその周りで遊んでいたことを思い出す。その忠魂碑の隣に「李成圭」の記念碑
も並んであったような思いでも残っている。その丘の南下側に「孔子廟」があったが、中は薄暗くて蜘蛛の巣もかかり気持ちの悪い遊び場所であったが良く夢に出て来る。

我が家は加納が丘小学校の正門の前で「文房具店、新聞販売店、京城日報支局を両親が営んでいたが、他に文部省の指定教育本や雑誌(主婦の友、講談社絵本など)朝日、毎日などの日本から取り寄せて販売していた。

加納が小学校は全校生徒は約220人くらいで高等小学校も二年教育で付設されていたが、子弟が
少なく朝鮮人子弟もいたようだった。

夏の日中は38度位にも上がることもあるが夕方からはぐっと冷えて寒いくらいであった。冬は近くに
流れる川にスケートリンクが設けられ、スケート大会も小学校主催で行われていた。

定州神社も町から離れた小高い丘の上にあって、神社参拝では松田のおじさんが神主だったと覚えている。町から少し離れているので級友は遊ぶ相手が朝鮮人の子供だった所為か朝鮮語が堪能で
あった記憶している。

又農事試験場の場長の息子は町の隅々を良く知った行動半径の広い子供だったように記憶する。
病院は小学校の横にあり鉄道医を兼ね、朝鮮人の医院もあったが日本人医者にかかることが常識であったように思う。
結局朝鮮時代は、小学校の同学年の子弟は男女併せて25,6人だったので、朝鮮人の子供とは遊ぶ機会は無かったが家に働く朝鮮人の子共が4,5人いたので多少の朝鮮語会話は耳に残っているくらいである。
日本人家庭の指定の進学先は平壌の中学、高女、工業、商業、或いは新義州の中学、高女、商業
工業、師範に国境をはなれて安東の中学、女学校などであった。
父の叔母が旅館を経営していたが、連れ合いを亡くし支那は山東省から5人のニーヤンを連れてきて
支那料理屋を経営していた。物心ついた頃からこの支那語は耳の奥にイントネーションが残っていて
忘れることは無い。そのうちの一人は戦後1988年丹東旅行に行った際再会出来たが他の4人は既にこの世には居ないということであった。





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