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上京(昭和25年4月)

あまり記憶していないが、昭和25年3月下旬、熊本駅
から普通列車に乗車して(急行料金を節約)新橋駅で
降り、大森の姉の家庭に行き、そのまま飯田橋の職業
安定所に職を探しに行った。英会話が出来ると言うこと
で、米軍第五空軍の月島基地の食糧倉庫の事務員の
仕事を得て、しばらく身をおくことにした。日本人従業員
は2,30人くらいであった。米軍要員は同じく30人位で
あったが、入れ替わり立ち入りするシビリアンのゲストの
ような人が多く出入りしていた。月島の中学校校舎の跡
らしい建物であった。一年も経たずにこの基地は閉鎖と
なり、改めて他の部署を探さなければならなかった。

次の仕事先が「松屋」跡のポストエクスチェンジ(PX)で
あった。8階のデパートの中は、一階、二階は物品売場
3階はコンセクション(民営の契約会社)の売店、4階は
婦人用品売り場、5階はポストオフィス、6階はソーダラ
ンチョネット(軽食堂)7階はPX事務所、従業員休憩所、
地下には米軍関係のレストランがあった。

一般には知られていない地下は地下鉄線路、その下
には壕のような地下室が10階ほどの深さに建設されて
いたようだった。確か地下3,4階の所まで行ったと思う

やがてこの松屋のPXも閉鎖となって、埼玉県の朝霞の
キャンプ内にある「PX」に移ることになった。
そしてまもなく今度は大和田レシーバーステーション内
の「PX」に移動することになり、東大泉の家から、本田の
220cc のバイクで通勤した。

昭和28年5月6日「井木路江」と結婚し31年に長女、せ
つ子、32年に次女(あつ子)、35年に三女(むつ子)が
生まれた。

米軍勤務では、月島、松屋、大和田とその都度、日本政
府から退職金を貰えた。
流石に日本政府は戦後経済が立ち直って、駐留軍は少し
づつ縮小して行った。
昭和30年、アメリカ二世の経営する自動車販売会社、「
メトロポリタン、エージェンシーズ」に営業社員として入社
これも一年で「国際興行㈱」(小佐野賢治社主に買収さ
れて同社社員となった。



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