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海軍飛行予科練習生、香取基地

昭和19年11月下旬、甲種飛行予科練習生の航空魚雷
整備普通科コースを終了後、20名づつ近くが、全国の基
地に配属命令され、我々も同人数の同期生が香取基地
に移動することになった。
鹿児島から長距離、山陽線、東海道線で東京に至り、両
国で乗り換え香取基地は、旭と言う駅の前だった。
あまり記憶していないが、基地から一駅離れた飯岡駅に
行き、航空魚雷の整備分隊が約200名ほど木造の兵舎
で居住し、航空魚雷の整備は海岸から離れた台地の下に
大きなトンネルのような豪が掘られた中に整備工場、格納
庫があって、本基地の第一線機、「天山」「彗星」などに積
載すべく、魚雷積載専用荷台の貨物自動車で搬送するよ
うになっていた。自動車は運転士と共に十数台あったよう
な気がした。

居住兵舎も格納豪にも電線は引かれて、不便は無かった
ように思った。主に古参の整備兵が24時間整備していた
整備を終わった航空魚雷は、専用の貨物自動車に両側
に積まれ、雷撃機に装備されて飛び立つ。特攻隊基地で
あったのだ。第131航空隊、第631航空隊と記憶する。

隊長は「赤星大尉」で叩き上げの将校だった。軍医中尉
と他に2,3人の将校がいたように思った。

3月10日の東京空襲はこの土地からも東京の空が真っ赤
に見え、翌日は東京出身の兵士に自宅に帰って安否を見
て来いと十数人が帰京して無事だったと言う人も何人かい
たと思った。8月15日午後12時、玉音放送を隊員全員で
聴いた。隊長は軍医の解説で敗戦を理解できたようであっ
た。
それからは魚雷の整備も無く、夜になると、古参兵の宴会が
毎夜はじまって一週間後分隊の解散が決められて、復員手
当て、海軍常備品などの支給があった。
隊長は貨物自動車を持ち帰り、運送業をやるので、希望者は
着いて来いと言っていたが何人が付いて行ったのか不明だ。

さあ、これから朝鮮にいる家族のところに帰ることは無理かも
しれないと、先ずは、無料乗車の出来る復員列車に乗車して
九州は熊本の親戚を尋ねようと思った。広島駅から見える市
内は市内電車は屋根が無く、焼け野原となって、多少の家が
残っていた。正しく「新型爆弾投下」である。列車は朝鮮人の
帰国のための特別列車となった。
これからが終戦後の苦労の始まりであった。

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