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海軍甲種飛行予科練習生第14期

垂水海軍航空隊は飛行場が無い航空隊で、確か昭和19年
4月から甲種飛行予科練習生が2,3個分隊入隊してきたよ
うに思う。
一個分隊は約400人で甲、乙の分隊に分かれていた。中学
同期のD,S,Nの3名が同時入隊した。戦後聞いたがもう一人
義中一年生に入学が一緒で転校したUが同じ分隊にいたそう
だ。

学科教育、航空魚雷整備教育、体操、水泳、信号、手旗など
の教育は一生懸命についていったものだ。
水泳は鹿児島湾の桜島一週遠泳では2mを超える越前くらげ
が目の前に来て驚いたものだが、そのうちに慣れてきてくらげ
の上に乗ることを考えた。しかしくらげは乗ってみると沈んで
しまうので、頼りにならなかった。大きいくらげは刺さないと言
うことが分かった。

海軍の訓練は厳しいことも、楽しいことも、連隊責任の体罰
でも連帯性が問われる。巡検後の総員整列は殆ど毎日総員
バッターを食らう。それも後日省みれば楽しい思いが残る。

朝鮮の定州から私の班長達宛にりんごや朝鮮のタバコが箱
で送られてきた。それ以後、カッターではオールを握ったこと
が無い。何時も特別に舵を取るだけだった。お蔭で尻や手の
ひらをすりむけることはなかた。
一万mのマラソンは上位10位内に入った。耐久力があった。

垂水の町に半農半漁のおばさんを母が知り合ってそこに下宿
していた将校宿舎の経理をやっている兵長がいて、或る日分
隊にいた私を訪ねて来た。下宿のおばさんから聞いて来たと
言う。それ以来、将校宿舎食堂に行っては将校の食事を頂く
ことが出来るようになった。一膳飯から開放され、同時入隊の
D,S,Nを同行しては銀飯や一級のおかずを食べさせてくれる事
に慣れきった。

半年後19年12月4名の中学同級の予科練生は普通j科を終
えて、千葉の航空隊に転属すことになった。他の3人と別れ、
(館山、木更津)私は香取基地に転属することになった。

次は香取基地
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コメント

No title

若い人たちのブログの多いなか、貴重な体験を読ませていただきました。
私、今65才。
まだまだヒヨコ。これから、もっともっと若いひとたちの役に立つように生きたいと思います。

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No title

色付きの文字満浦線の熙川と言う所に我家が有りましたが、
清川江と言う川が流れていて情緒有る町でした。
郡庁が有り日本人小学校、普通学校、機織学校の3校が有り、中々賑やかな
町でした、当方は、先代の祖父が満州事変の折り、陸軍憲兵で除隊後、此の町で
旅館を経営して、金儲けをして、我が父に譲り内地に帰ってしまい、其の後、満浦線の設営に鹿島建設が入り、活気を呈して居ました。

芸者の検番も出来、旅館も繁盛し,主に割烹旅館の方がはやって居ました、
日本人経営の旅館は、3軒有り、当方の旅館が一番はやって居ました。
仲居を20代もつれの可愛い女性を内地より、厚遇で雇ったのが繁盛しした結果だと思います。

Re: コメント見ました。

煕川は20期の梨本丈樹氏も一時、校長だった父君について
いたそうですね!

貴方も実家が割烹料館をやられていたのですか!

では町一番のヤンバン家だったですね!小生と良く
似通ったところもあるようです。

定州では、駅前の「吉田屋」と言う旅館が、軍隊輸送の
列車の炊き出し弁当で一儲けして、別府に別荘を買い
大儲けの一番手でした。
私の家と特別仲良く、毎日そこの主人の爺さんが私の
家に来ては昼寝していました。
支那事変の折には、熊本の親戚が衛生将校として通
過するとき特別の弁当を作っていたようです。

あまり大儲けしたので終戦後直ぐ亡くなりました。

「長崎屋」旅館の若い女中さん達が写った写真が
あります。満州でうまく行かなかった女の人が日
本に帰る際、お金を使い果たし、停車した定州駅
に降りたのだと思われます。定州の質屋さんにも
和服が沢山ありました。この方も大儲けした口です










 

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Re: 朝鮮時代は少ないようですね!

平壌中学には定州の同期の仲間が5人ほど行っていました。
小生は兄が新義州商業5年から東京の大学に剣道で進みましたが、学徒出陣でフィリッピンで戦死、新義州では一緒に下宿
にいました。2年のとき寄宿舎に入り、古山、都甲各先輩、田
頭君(内地の尼崎中学から転入)と寄宿舎を追い出されました
小生の場合は支那料理屋に入っていたところ中山(鼻)に見つかっただけで反省はしなかった覚えがあります。とにかく規則破りは天命で良く安東県に無断で遊びに行きました。

夏、冬休みは機関車に乗せてもらって平壌や安東に日帰りで行き母親を心配させていましたね!だから京義線沿線は今でも橋やトンネルの場所を記憶しています。坂は機関車の力が入らず
降りて歩いても追いつく有様でした。オマニがチマの中に禁制品
を入れて密輸していましたね!(^。^);



> コメント 有難う御座います。
> 梨本氏とは、すれ違いでした、訳を申し上げますと、当方、内地の母方の国民学校へ1年遅れで、転校して居ました。
>
> 体調が悪く、暖かい内地で頑張れと母に送られて、連れて来られ、置いて行かれました。
>
> 2年頑張って、平城1中を受けましたが、見事滑り、已む無く義中を受け入学して
> 寄宿舎生活をし、3年の後半、寄宿舎が、陸軍兵事部が建つので取り壊しに成り
> 府営住宅に下宿、転居、終戦後、熙川へ帰り2年後、内地に引き上げて帰りました。

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