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65年目の終戦記念日

終戦から65年目の今日
今日は8月15日、日本がアメリカに戦争で負けた記念の日である。

65年前の今日、私は千葉県の香取基地に海軍飛行予科練習生として基地の分遣隊兵舎にいた。
分遣隊の体調は叩き上げのA大尉で,
将校は他に2,3にんいたと記憶している。他に若い軍医中尉もいて隊員が具合が悪くなると
直ぐ電気治療をするので隊員は電流の身体を通すのが嫌で剛毅になる者が少なかった。

この日8月15日は今日のように猛暑の日で逢った事を覚えている。分隊士の伝達で午後12時
隊長宿舎の前に全員集合せよとの命令が朝食の時にあった。正午ラジオから重大放送があるので
司令部からの命令である。隊員全員が畏まって隊長宿舎の前に整列、ラジオ放送を聞いていた。
天皇のお声は初めて聞くが少し甲高い声であったように思った。
「忍び難きを堪え云々・・と聞いている内にこれは戦争に負けたのだな」と感じ取った。
隊長が軍医に難と言っているのかと聞いていたら、軍医は戦争に無条件降伏したと言っている」
と言うと隊長はそんな場かな事があるかと自室に篭ってしまった。

回りでは夏の蝉がみーんみーんと激しく鳴いていたように覚えている。

昭和19年4月甲種飛行予科練習生の入隊は鹿児島県垂水航空隊であった。旧制中学校4年生を
終了し同級生4名が一緒であった。他の同級生は同じく千葉県の木更津、館山航空隊に転属して
いたがそれ以来戦争中は逢うことは無かった。

入隊時飛行場の無い濃く謡だったので不思議な気持ちになったが、それは飛行機乗りのパイロット
のコースでは無く、航空魚雷の整備をする練習生であったのだ。死亡とは違うので、辞めますとは
言えなかった。俗に言う甲飛予科練と言って、操縦に限らず通信、整備などのコースに分かれてい
たのだ。今更取り消すわけには行かないのだ。普通練習生として航空魚雷整備の6ケ月の学習及び
訓練を終了して実戦部隊に配属され半年後には高等練習生として学習、訓練コースが待受けていた

甲飛予科練の進級は早く、半年後には飛行兵曹、一年経てば上飛曹となる特別少年兵であった。
ただし訓練は厳しかった。特に体育では、器械体操、跳び箱、カッター漕ぎ、水泳、海軍体操など
の他、航空魚雷整備の教程、英語、数学、偵察、通信と月、月、火、水、木、金、金と訓練は続く

しかし入隊して3ヶ月が過ぎた頃から右舷左舷に別れ泊がけで外出が出来るようになった。

昭和19年12月、普通練習生のコースを卒業して、同期の仲間20名と香取基地に配属された。
その時他の同期のもので朝鮮、台湾の基地に転属となった連中は渡航の船が米潜水艦の魚雷攻撃を
受けて40名ほどが水没戦死と後日聞かされたのだった。合掌!

今日終戦となった時から65年目の記念日には
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