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同上#3今年は8月15日が来て戦後65年目となる。
朝鮮の西北部の田舎町(北朝鮮)で生を受けた私は、小さな町(日露戦争緒戦の地)で小学校を出て
道庁のある「新義州公立中学校」に進学、昭和16年12月8日「大東亜戦争が真珠湾攻撃かあr始まった
のは中学2年生の2学期が終る頃であった。
中学校の授業はこの頃から軍事教練が強化され始めたのであった。
4年生になった頃幼年学校や海軍甲種飛行予科練習生に進んだ先輩達が母校の行動の縁談に立って「我に続け」と軍国行進をアジっていたものだ。当時の3,4,5年生たちはこぞって少年兵を志したのだった。

旧満州と旧朝鮮の国境を流れる「鴨緑江」は日本で一番長い川だと歴史の時間に習った。その鴨緑江の流れの畔で中学校4年間を学び、海軍甲種飛行予科練習生を志願して、昭和19年4月、鹿児島県の垂水町にあった海軍航空基地に入隊する事になった。航空基地といっても飛行場の無い基地であった。
ゼロ戦のパイロットになってアメリカの戦闘機と戦い武勲を立てることがこの頃の少年飛行兵の生き甲斐であったが、甲種飛行余暇練習生の訓練目的は初志のパイロットでは無くこの基地は航空魚雷の整備普通練習生のコースであった。中学校の同じクラスから私の他3人が別の分隊に配属されていた。

6ッ月の訓練の終了後私は千葉県の香取基地に同分隊かあr他の19名と供に転属となった。
同窓の3名は同じく千葉県の「木更津航空隊」「館山航空隊」などに配属され戦争中は二度と会う事は無かった。戦後は家族の引き揚げ、荒涼たる戦後の焼け野原の中にあって、衣食住の貧しい社会の中に敢然と生活の為職業を選ぶことなく一生懸命に働いたものだった。
食料は戦後の配給では餓死者も出るくらいの貧民の社会であった。焼け跡を復興し、粗末な収入で進学、アルバイトなどで糊口を拭うのも必死だった時代である。


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