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中部第129電波部隊

旧中部第129部隊
昭和18年東京では各大学校の卒業繰上げで学業で延期していた学生の陸海軍への徴兵
を「学徒出陣」と言って「神宮球場」で壮行会を開催した。甲高い声の「東條英機陸軍
大将兼総理大臣」が学生の分列行進を受け演説していたことが大々的に各新聞にも掲載
された。

私の兄もその一員で雨の降りしきる神宮球場で分列行進に入っていたのだ。
間もなく本籍地であった長崎県は大村の陸軍部隊に入隊した事は当時朝鮮の西北部の
満州国との境の新義州の中学校にいた私にとっては一家から軍人が出ることは町の誉れ
でもあった。当時の社会風潮としては誰もが戦争参加に国を守ると言う軍事教育に染ま
っていた。

当然私も同級の殆どの同級生と共に「海軍甲種飛行予科練習生」に憧れを持っていた。

昭和17年、ドウ、リットル率いるB29が東京爆撃を敢行し早稲田付近に被害が出たこ
とを兄が帰省してその様子を話してくれたことを今も記憶から離れない。又共に大学に
行った、友達(スケート選手)と帰省することもあった。その友達と東京の辻占いで貴
方方は足を失うか早死にするかも知れないよと占ってくれたことを冗談に話してくれた
ことは65年前の話だが未だに覚えている。占いの通り兄は戦死、友達は戦傷で右足を
失った。

昭和21年家族が全員(祖父は引き揚げ船の中で老衰死、両親と直ぐ上の姉に、上の
姉夫婦と赤子)が引き揚げて来た。熊本の親戚の家の一部を借りていたが、間もなく
郊外にバラックの家を父が購入し、姉は東京で教員になった上の姉のところへおさんどん
で上京。父の勧めで熊本の私立専門学校に入学した私は東京の大学に進みたく昭和25年
上京した。

その頃熊本の両親の元へ兄の戦死公報が熊本市役所から届き両親の嘆きは見るも辛かっ
たことを覚えている。前夜の夢に兄が何処までも追ってもどんどんと行ってしまっていなく
なってしまうのだ。夢の知らせと言うか翌日公報が来たのだ。

さて戦死公報には昭和19年10月18日、フイリッピンマニラ湾港外コレヒドール沖で
乗っていた輸送船が米潜水艦の雷撃で沈んだと書かれてあった。

昭和28年両親が子供達がが全員東京にいるので、地方の業界新聞社の東京支社を受け
持つと言う形で母と共に上京してきた。その頃私は職場で知り合った妻「路江」と新し
い生活に入っていたが、熊本市の家を売った金を足して、私達にだけに売りたいと言う
女性の小さな家を買うとにした。父は姉夫婦の学校教員用の分譲土地を別にローン
を組んで契約していた。小さな家をアメリカ人GIに貸して、新しい土地にバラックのよ
うな家を建て両親と私達夫婦が住むことになた。昭和29年の5月であった。

我が妻「路江」は東京生まれだが父親に戦後直ぐ14歳時に死に別れ戦災にあって、静岡
の磐田に疎開をしていた時期がある。その時見付にあった、この表題の「中部大29部隊
兵舎」に勤労作業で行っていたと話していた。思うに何か兄を通じて私との赤い糸で結ば
れる縁があったのだろうと二人で話し合ったものだ。家内は一昨年平成20年4月この世
を去った。実母と同じ脳出血であった。享年78歳。

両親も兄に貰ったと思われる生命で平成4年、5年と続いて95歳と92歳の長命を全う
した、近くの「真龍寺」(浄土真宗)の墓に妻、路江と眠っている。20日、21日、
28日が命日になる。

厚労省主催の戦没者慰霊碑巡拝のツアーがあると長女が区役所から申込書を貰ってきた
来年の2月、マニラ、バギオを廻る10日間で最後にマニラの慰霊碑で合同の慰霊祭を
厚労大臣もしくは現地フイリッピン日本大使出席の元挙行されるのだそうだ。来年行け
るなら行きたいが加齢と共に老体となれば行けなくなるだろう。
そこで戦死した兄の兵籍調査票を本籍地だった長崎県庁から取り寄せた。
調査票を見て初めて分かったことは、19年7月にマリアナ島で罹病と書かれてあった
これは初めて分かったことだが、甲種幹部候補生の試験を受験する際に病気になったこと
は父から聞いていたが、マリアナとは初耳である。19年8月門司港から輸送船に乗った
と言うことは戦前か戦後か忘れたが父から聞いていたことである。それに戦死時所属して
いた部隊名に「第七飛行師団」となていた。

昭和19年4月私が「海軍甲種飛行予科練習生」の鹿児島航空隊に入隊する際、あの朝鮮
の西北部の片田舎から下関港まで一緒について来た、母が東京の兄の下宿先に置いてある
荷物を整理しに行ったついでに磐田の兄がいた電波部隊に面会に行ったところ一日中待っ
てやっと会えたと聞いたことがある。又亡妻の路江からは見付けの連隊に勤労作業に行っ
てよく兵隊さんと話をしていたことがあったよと何時も話していた。

磐田の電波部隊をインターネットで調べていたら、「旧第四航空情報連隊跡」「旧第一航
空情報連隊跡」のほか「通称中部129部隊」「東海大552部隊」などが出ていたのだ。
亡妻の話と変らない事実が書かれてあった。

「がま口塾」と言うサイトに名古屋のアナウンサー女史のお名前を拝見してたら同じ部隊
にお父上の129部隊の記述があったので早速メールでご存知ならと聞いてみたら即親切
丁寧なお返事を頂いた。
知的なお仕事をされておられると拝察する。徐々に兄の戦死の状況が解析できるような気
がする。

両親の話、亡妻の話などを纏め、段々と不明であった部分が分かってきた今日この頃で
ある。初めてお便りした親切な方など多くの人々にお世話になる。特に近くに所帯を
持っている長女には色々なことを教えられるのが嬉しい。死ぬまでにまだ知りたいこと、
やっておきたいことが沢山ある。



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