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新義州公立中学校時代

昭和15年(1940)4月8日、新義州公立中学校の入学式
に確か母と中学校の門をくぐった記憶がある。あれから来年
は70年が経つ。

一年生の制服は兄のお古を着て行った。制帽は新品を誂え
た。下宿は兄(商業)の下宿に一緒の部屋に入ることにした。
警察官の「山口さん」の家の一間であった。

一年生の担任は東京高等師範学校出身の若い熱血先生で
国語、漢文の教師だった。

二年生の二学期、中学校の寄宿舎が校舎の裏手に新築され
約30人ほどの生徒が入寮して、同部屋は四年生の大石さん
が室長であった。寮長は5年生の山上さん、賄いは中学校の
小遣いの岡本さん夫婦だったことを記憶している。

12月8日朝礼の時舎監の先生から真珠湾攻撃を聞いて興奮

三年生の時、転校してきた同学年のTと中華料理屋で食事を
していたら中山先生とバッタリ会った、翌日母親が呼び出され
筒井校長から停学一週間を言い渡された。今思うとそれほど
悪いことだったとは思わない。

地元の学友Eに誘われて鴨緑江対岸の満州国安東県に行った
ことがある。夏はプロペラ船で、冬は満人の漕ぐ「橇」に乗って
行きは10銭、帰りは5銭と向い風、追い風で料金が違っていた
ことを教えられたものだ。
夏休みに入る一週間前は道路工事などの勤労作業には参った

安東には姉が女学校の寄宿舎にいて、小遣いが無くなったら、
少し回して貰うのが目的だったことを反省する。
ロシヤレストランの「ビクトリヤ」のケーキやプロシキが旨かった

4年生になった頃は、中学から幼年学校、海軍飛行予科練に
進んだ先輩の「戦時講和」を講堂で聞いて、予科練に行くこと
を決心したものだ。4年生を終了した時に鹿児島県は垂水の
航空隊に入隊するように通知が来た。

母と関釜連絡線で内地下関に渡り母は東京に、団体で鹿児
島の連絡船乗り場から桜島に渡り、垂水航空隊に着いたが
飛行場の無い航空隊であった。

母は兄の学徒出陣による陸軍に入隊したので、下宿に置い
てある荷物の整理に行き、熊本の実家行きに乗った汽車の
中で垂水の海軍さんの下宿をしていたおばさんに知り合って
ここに世話になっている航空隊の兵長さんには練習生の時
大いにお世話になって助かったことは終生忘れられない。

しかし訓練で死ぬ思いを経験するとは思っていなかった。





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