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ごまめのぼやき!

新義州税関
新義州税関は今も変わりない姿を見せている。
新義州市には日本統治時代(1910から1945)に新しい町として、先ず京義線の終
点駅が浜町に終点として完成、その直ぐそばにこの税関の建物が出来たのだった。
レンガ建ての税関は二棟ある。中に入ったことは無いのでどういう仕分けかは知らないが、
鴨緑江の岸に対岸の安東県行きのプロペラ船の発着する桟橋があった。夏はプロペラ船、
冬は屈強なニーやんが漕ぐ、橇の出入りで賑わった。新義州っ子のヤンバンの子息の同級
生と一緒に橇に乗って向こう岸の旧清国(満州国)安東市に、息は0銭、帰りは5銭であ
った.

それは何故かと尋ねれば行きは向かい風、帰りは追い風と言う理由であった。それは地方
から来た私にとっては全くの初耳であった。依頼他の友達と安東に行く機会があれば、行
きは出させ、帰りは自分が払うと言ってやろうと思ったが二度とその機会は無かったそれ
は上流の水方ダムの完成で鴨緑江の水が凍らなくなったからだ。記憶だけは死ぬまで忘れ
ないだろう。

安東市は新義州府よりも大きい町であった。新義州の日本人数が1万人であったに対し、
安東市は3万人の人口であった。しかも満鉄経営の行政、商工の町であった上にロシヤ系
の住人もいてエキゾチックな町に見えた。税関は表題の写真の税関と鉄橋の両端にある税
関を通らなければ通行は出来ない。
国境であるのは、それぞれの都市の通過や物価の差があり、それを見越して物品の密輸す
る者が堪えなかった。例えば鉄橋を渡ってくる鉄道列車が駅構内に入る寸前はスピードが
歩くような速さになる。
その途端列車から大勢の朝鮮人男女が飛び降りる、税関の目逃れて、物品の売買で利鞘を
設けると言う具合である。特に女の場合は宝石類をゴム嚢に入れ、税関の係が触れない所
に隠して密輸を企てると言う次第である。男性も地産貴重品を飲み込み税関を通り抜ける
算段をするのが手法であった。

我々は子供であるので税関で調べられることは無かったが、大人に頼まれて酒類、遊戯(
トランプ、花札類)を頼まれることはあったようだ。列車の中には移動警察官が巡察して
いた。戦後は昭和21年の暮れ頃まで日本人は引き揚げが侭ならなかったようだった。私
の家族も昭和21年10月に祖父、両親、姉、上の姉夫婦と赤子が朝鮮人から2隻の船を
チャーターして200人が沿岸沿いに南を目指して台風の中を約一ヶ月掛けて仁川近くま
で越えてきたのだ。再会してその事に関しては余り話したがらなかった。その両親も95
歳と92歳で平成4年5年にこの世を去った。兄の22歳の戦死が両親を長生きさせてく
れたと信じている。

さて私の父は、24歳の時、定州の町に日露戦争時に軍隊についてくる商人の一人として
祖父の妹にあたる父にとって叔母が連れ合いと死に別れ、父を呼んだらしい。大正8年で
あったと聞いている。その後父は小さな町で文房具、新聞店、レコード、スポーツ器具な
どいろいろなとをやって来て4人の子供を育ててきた。私は末っ子であった。父は日本人
会の先輩に習って謡曲をやったり、同僚のオートバイ店からBSAというイギリスのバイク
を買わせられたり、日本に20台輸入された「スミスコロナ」のかな文字タイプライター
を購入したりして当時としてはハイカラな部類の人間だったらしい。

遺伝では無いかと思われるが私も「パソコン」「fax機器」「携帯電話」などを取り入れ
て20年を過ぎた。フアックスの場合は商売の道具であったが「携帯電話」ははじめはト
ヨタの新車を購入した際に自動車電話として取り付けたが移動する場合には大きなバッグ
を抱えて持ちまわったものだ。考えて見るとあまり利用できなかった。次にフアックスで
あるが電電公社が奨めるレンタル機器で毎月3万円支払いの60ケ月の180万円を二回
続けたもので10年間で180万円支払った。それも現在のように小さくて機能の良い者
ではなかった。は誰もが持っている携帯だが所期はこのような状態であった。覚醒の感が
ある。

自家用車も昭和30年始からトヨタ、日産、いすず、マツダ、ホンダと50台位は購入し
ただろう。外車も新車の「BMW」などを乗り回したものである。
平成に入ってからは同級生3組の夫妻とカナダ、ヨーロッパ、オーストラリヤと10年間
はしんだが中学校同窓会の為「北朝鮮」にも3回渡航して鴨緑江には15回ほど遊覧旅行
したので大勢の人たちと仲良くなった。

さて本題の新義州税関の建物であるが、橋際にも税関建物がある。鴨緑江の鉄橋を渡って
この朝鮮側の時間に中国のチャーターバスで入って税関検査を受けたことがある。担当市
のある幹部から西安の遺跡のお土産用「兵馬俑」をトランクに入れておいたが。エックス
線で見ると丁度ピストルの形のものが入っていると疑われて中を見せろと言う。「兵馬俑」
の頭の部分がピストルの銃口に見えるのだ。開けてみて係の税関員と大笑いした。なんで
もないのだがその税関員に日本の「タンベ」を1カートンあげたら「コマスミニダ!」と
喜んでいたことを思い出し好意は何処の国の人にも通じると思った。

韓国にしろ、北朝鮮にしろ、特にフィリッピンの税関員は袖の下が喜ばれると感じた。日
本の税関ではそれが効かない硬い国柄であると思う。

ところ変われば品変わるの例えとおりだが、北朝鮮に同窓会の行事として1992年’9
5年の2回或る北朝鮮の有力者を通じ観光旅行の形で交渉が上手く行ったことがある。
新義州の市内を散策できると言う条件をつけて見たが、良いですよと確約が取れた。
丹東市人民政府のトップの方にこの件を後方応援を頼んだらこれも快諾を得た。
丹東市と新義州市の市人民政府は日本と違って隣同士の交流は全く問題は無かった。
寧ろ丹東市の幹部は宜しくと言った程度の挨拶だけだっただろうと推察した。

丹東市の幹部の一人息子の日本留学の道筋をあらかじめ用意しておいた返答の意味もあっ
た北朝鮮の新義州市中国国際旅行社のチャーター小型バスを2台で鉄橋を渡り入境した。
鉄橋を渡る際は日本の唄「故郷」をテープで聞きながら全員が興奮の極みであった。
50年の歳月は懐かしさを通り越して夢ではなく現実であった。

よく夢の中に新義州から定州までの汽車で帰省するあの夢が源次sつとなったのである。
思う念と言うか「新年岩尾も通す」の格言を思い出した。

ピンヤンでは朝鮮旅行社の副社長が挨拶に来た。来日の時我が家にも来た顔なじみの人物
である。国際飯店で焼肉、冷麺を食べたいだけ食べる歓迎会が催された。ガイドも定州出
身の外国語大学出身の若者のほかに4,5人つけてくれたのだが全員監視員であったこと
が、あとで分かった次第である。私についたガイドは好意を持って接してくれた。余程の
エリートであったか、4,5年後日本に何度も北朝鮮の団体の訪日に付随して来たのだ。

金正日総書記の学友の大物人物を紹介して呉れて、その人は別に私だけを特別招待状を輸送
して来た。妙高山や金剛山などのホテル宿泊まで用意してくれた。北朝鮮から「平壌音楽舞
踊団」の日本国内興業にも招待状が来たので我々同窓会の会長にもご一緒頂いた事がある。






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