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昭和歌謡曲

鴨緑江鉄橋
私も今年は何とか生き延びて、あちこち痛みを抱えながらも頑張っている。
別に頑張らなくても良いのだが、90歳になる先輩がフイリッピンの「セブ島」
に余生を楽しんでおられる事は一つの長生きの目標を与えてくれる。

2月と5月の2回彼の誘いに夫々3泊4日と4泊5日、私の長女付き添いで
セブ島まで行って来た。

セブ島では、話し相手も少なく後輩の訪問を大変喜んでくれて、セブ島の歴史
ある所を案内してくれ、ウオーターフロントにある「カジノ」にもプレイしに
一緒に行ってくれた。90歳と言えば老体にとって大変な行動で感謝したい。

さて先輩は昨年の6月から、始めのうちはどんな所だか見て来ると軽く体験し
に行かれたが、案外セブ島は気候も良く、物価も安く、住民の対日感情も良く
気に入ったらしい。毎日の生活は友人も少なくすることも無く元々歌も好きで
今まで長年暮らしておられた日本でも歌をこよなく愛しておられた。

ところで昭和の歌謡曲では何がと聞くと歌手では「奈良光枝」が一番気に入って
いたそうである。

私の場合は昭和9年に小学校に入学だから、その頃の歌は殆ど知らなかった。
ただ小学校に入る前ごろ、大叔母の経営する支那料理屋(今では中華料理屋)
に清国の山東省から来ていた王蘭亭と言う130キロくらい体重のある帳場
を預かっていたチンコーロー(清国人)がよく私を膝の上に乗せて藤山一郎
の「丘を越えて」と東海林太郎の「国境の町」を歌って呉れ、未だにその歌
は忘れない。「僕は軍人大好きよ」も膝上に乗せて揺らしながら歌ってくれ
たものだ。

朝鮮北西部の小さな町には日本人は約1200人ほど小学校全校生徒数は、
約220人位であった。町の中心と並んで鉄道官舎が50軒程あった。
町のお祭りには「東京音頭」「「東京行進曲」「野崎参り」などの曲が鳴り
響いていた。
「忘れちゃいやよ」「二人は若い」「ああそれなのに」「銀座の柳」などの
唄は今でも覚えている。中学校に入ったのは昭和15年だが「酒は涙かため
息か」と「影を慕いて」はギターで覚えたものだった。
「祇園小唄」えのけん(榎本健一)の「しゃれ男」「幌馬車の歌」「酋長の娘」
「男の純情」「東京ラプソディ」「「うちの女房にゃ髭がある」「人生の並木
道」「露営の歌」「別れのブルース」「雨のブルース」「「旅の夜風」「人生
劇場」などは子供の頃に聞いていた歌だが歌詞は全部は覚えていない。
歌手では「藤山一郎」「淡谷のり子」「東海林太郎」「デイックミネ」「市丸」
「勝太郎」「「渡辺はま子」「菊池章子」達は戦前派であろう。

確かキングレコードから送られて来た湯呑の底にこの歌手達の写真があった。

「露営の歌」「支那の夜」「誰か故郷を想わざる」「麦と兵隊」「暁に祈る」
「東京の花売り娘」「湖畔の宿」「蘇州夜曲」
昭和14,5年頃になると段々と戦時色になって来る。伊藤久雄や灰田勝彦達
が軍歌を歌いだした。
だが「隅田川」「湯島の白夢」「一杯のコーヒーから」「旅姿三人男」「新雪」
「きらめく星座」「明日はお立ちか」「湖畔の乙女」

昭和15年を過ぎると「若鷲の歌」「同期の桜」「加藤隼戦闘隊」「麦音と兵隊」
「ラバウル航空隊」「ラバウル海軍航空隊」と全く戦時の歌になってきた。

昭和20年、戦争は終った。
一番に聞いたのは「りんごの歌」である。この歌は老若男女国民が明るくなった
歌である。続いて「かえり舟」田端義男であったと想う。

終戦時は何処を見ても敗戦の様相、歌も退廃的になってきた。「秘史の流れに」
「夜のプラットホーム」「山小屋の灯火」「異国の丘」「夢淡き東京」
「ブンガワソロ」「憧れのハワイ航路」岡晴夫、小畑実、霧島昇、

昭和22年水泳の40㍍世界記録の「古橋広之進」日本中を明るくする。

帝銀事件の23年には、「東京ブギウギ」太宰治は入水自殺、翌昭和24年には
美空ひばりの「悲しき口笛」笠置しず子の「銀座カンカン娘」
1950(昭和25年)「水色のワルツ」「東京キッド」朝鮮戦争勃発6/25

戦後のアプレゲールの「おお ミステイク」の山際とか何とか言った若者がいた
熊本から東京の大学に進学の志を抱いて上京したのは、この年の4月だった。






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