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兄の戦死(学徒出陣)

学徒出陣
昭和16年12月8日(日本海軍の真珠湾攻撃で戦争は始まった)
当時私は中学校2年生で寄宿舎に居た。8日の朝礼で舎監の訓示から
「戦争が始まった」と告げられた15歳の少年にとっては戦争の意義
を知らないし、当時の学校教育では、この戦争は正義の為であると
頭から信じ込んでいた。
下宿していた兄は昭和17年、東京の大学に進学して、夏休み、冬休
みには24時間もかけて朝鮮海峡を遥々と帰省して来た。
兄はもう一人の同級生がスケートで日大へ、兄は剣道で法政大学に進
んだ。夏休み兄から聞いた話では二人東京の繁華街の辻占いで見て
もらったらどちらかは足を失くし、片方は短命であると告げられたと
言う話をしていた、そのことを終生忘れ得なかった。

昭和18年「学徒出陣」の壮行会が明治神宮球場で挙行され、兄はその
年大学中途で本籍の長崎の大村市の陸軍連隊に入営した。下宿において
ある生活用品を其の儘にして、後日(昭和19年4月)私の海軍甲種飛行
予科練習生入隊の折、母が下関まで同行し荷物を整理に上京したのだった。

兄は幹部候補生の受験の際に病気になって後、門司港から南方に輸送船に
乗り込んだと言う話を父の手紙で予科練にいたとき聞いていた。

昭和20年8月15日戦争の無条件降伏の天皇の放送を千葉県の「香取基地」
で聞いた。10日ほどの後、部隊は解散復員となった。私は家族が朝鮮の
西北部に居住していて、帰る家が無く、朝鮮に渡ることが出来ないので一応
熊本の親戚の家を訪ねることにした。
親戚の家は父の従兄弟に当たる方も職業軍人で4人の息子も陸軍にいる軍国
一家であった。

長くはお邪魔できないので、「長洲町」と言うところの製塩会社に仕事を求め、
続いて宮崎県の「延岡市」の旭化成の延岡工場に職を変えたのは、宿舎があっ
たからである。昭和21年の11月頃ふと朝鮮にまだ居る筈の下の姉に偶然町
の路上で逢った。私が延岡に居ると親戚から聞いて当ても無く探しに来たの
だった。偶然とは恐ろしいものだ。

それから延岡の会社は退職して家族と熊本に住むことになったが昭和23年7月
「熊本市」から兄の戦死の広報が届いたのだった。前夜の夢で兄に逢ってそばに
近づくとどんどんと離れて追いつかない変な夢であった
夢の知らせであったと戦死の公報を見ながら思ったが両親の嘆きを見て辛かった
事を忘れ得ない。

時は流れ、私は東京の職場で「路江」と知り合い28年5月に結婚し、翌年両親
が熊本より上京して私達夫婦の知り合いから赤羽の家を買った。
間もなく上の姉夫婦の学校関係の分譲土地を「練馬区東大泉」に求めバラック
だったが貧しい家を新築した以来58年が経つ。
父は平成4年、95歳と母は平成5年92歳の長命であった。
両親の遺産相続で二人姉に夫々現金を渡し、土地と家(私名義)は独身者用
アパートを建てることにした平成20年4月最愛の妻(路江)が78歳で三人
の娘達と5人の孫を残して黄土へ旅発ったのだ。

苦しいことも悲しいことも共に55年間一生懸命にこころをあわせ懸命に働いて
子供達の進学、結婚と妻の路江が大きな心の支えになっていたことは感謝の気持
ちばかりで、近くの「西本願寺系」のお寺に遠くの西多磨霊園から改葬して毎月
命日にはお参りを欠かさないでいる。

来年厚労省のフイリッピン慰霊碑巡拝が定員を決めて挙行される。両親の出来な
かった兄の慰霊に参加したいと思っている。
今年は先輩の「セブ島」での永住を機会に2度渡航して、8月次女の家族と共
にもう一度行くことにしている。
若くして戦死した兄の命を両親が90歳半ばまで生きながらえたと兄の慰霊に
これまでのことを報告したいと願っている。

先日旧制中学校の後輩から「You Tube」をどうぞとメールに添付して呉れた。
お陰で「学徒出陣明治神宮壮行分列行進」の画像を見ることが出来た。
この分列行進の中に兄がいる、又見送りの各高等女学校の生徒の中に二年前に
先立った亡妻がいるのだと思うと自然と泣けて来る事を止められなかった。

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