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国境の町、新義州府

  朝鮮と支那の境のアノ鴨緑江
    流す筏は よけれども
  雪や氷に とざされてよ
    明日は又 新義州につきかねる
有名な民謡鴨緑江節に歌われた新義州は、筏の街であり木材の都であった。

鴨緑江の上流地域には、千古釜鈸を入れぬ原生林が遠く白頭山麓を中心に
夥しい数量に及び、総督府治世以来、これを伐採し流筏する計画が進んで、
最盛期には月数万尺〆と言われた。筏は吉野川で鍛えた筏師の唄にのって
流されて来た。新義州ではこれをすべて貯木製材し、内鮮満各地に輸出する
ことになり、日を追って新義州の製材は殷賑を極めた。

国境第一の前線都市新義州は、その昔は蘆草茂る砂州でしか無かったが、
明治38年の日露開戦に備えて、京義線が急ピッチで延び、満州側の安東
~奉天間に通じる鉄道建設の為急激に発展をとげ大都市を形成した。
鉄道による典型的な発展都市である。

この新義州と満州の安東との間には、鴨緑江鉄橋がかけられ、1,100mの
鉄橋の間に十字に開くき、船舶の運航を可能にしていたが、昭和7年ごろ、
種々の関係で開閉を中止し、東洋一の景観も消え国境観察者も寂しくなった

それまで平安北道の道庁は義州にあったが1925年(大正15年)新義州府
に移転された。
道庁、府庁、公立中学校、女学校、高等普通学校、商業学校、郵便局、税関
王子製紙工場、鐘紡、無水工場など多くの建物や電気、水道、下水などの、
インフラが建設されて近代都市が現れた。

京義線の終点は元々江岸駅にあったが近代的なレンガ作りで瀟洒な三階建て
のホテルが入ったビルであったが朝鮮戦争の時、米軍の爆撃で鴨緑江鉄橋
の一部と共に消失した。

現在は北朝鮮の都市となっているが、多くの日本による建物が他の都市より
も残っている。




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