スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

セブ島長期滞在

旧制中学校の先輩が奥様に先立たれ、セブ島でリゾートを経営されている娘夫婦の元に
残り少ない余生を気候の良い、物価の安い又住民の優しさが身にしみるセブ市に引き
取られて長期滞在をス事になった。

東京の住まいが近くでよくフアミレスで逢ってはコーヒーを飲みながら話し相手になって
いたが、セブ島に移ってからは良いところだから来ないかと何度も誘われていた。
そのことを近くに住む長女に何時も話していた所今年の正月、娘から電話で「セブ島」に
行くなら航空券をお年玉に買ってあげると言われてやっとその気になった。

長女が全ての「セブ島」行きのプランを設計して、1月30日いよいよ午後14:30発
成田空港からセブ島「マクタン空港」へフイリッピン航空で出発し、18;30着。
先ずはセブ島マクタン島にある「パシフイックセブリゾートに直行、あくる朝、ホテルの
フロントに先輩が小型バンをチャーターして迎えに来てくれた。

セブ島の先輩借家
マゼランのセブ島侵略記念碑や要塞、あるいはスペイン人の家など多くの遺跡が残っているがいずれも1500年頃の
ものだから今から500年前もことで比較的に歴史は浅い。

スペインからアメリカに変わり住民はキリスト今日の先例を受け、独特の英語を日常会話にしているのだ。

セブ島全体では350万人ほどの人口でセブ市は約75万人暗い隣のマンダウエー市は25万人くらいでこの地区だけで100万人以上はいるようだ。市内にはアヤラ、シューマートなどの大きなマーケットやホテルがあり、フイリッピンの中央部のピサヤ地方である。

中央のマルコポーロホテルの中には日本兵戦没者慰霊碑があり、戦時中は浦亜kの地区と違って大きなトラブルは無かったようだ。極めて日本人に対する感情は良い。

東京から僅か4時間半マクタン空港に着く。そして気候は良く物価は安く、気温は年中暖かく、海はエメラルド、リゾートとして世界中の人が集るようである。

日本企業も多数の会社が工場をこの地に進出させているそうだ。先輩のyぷに余生をここで送るのは普通では出来ないが出来ればついの棲家として送れば最高の人生だと思う次第である。
聞くとこりによると毎月の生活費は10万円で足りると言う。




スポンサーサイト

「セブ島」リゾート

5月12日~16日まで再度セブ島に行って来た。
12日成田空港14:25発セブ島マクタン空港には16:30着、空港には門脇さんの長女の「友子」さんが
運転手と車で迎えに来てくれていた。何時もの事ながらありがたい!今回は明るい夕方であった。
門脇さんは途中のフイリッピン料理店で夕食を共にする為に待っていてくれていた。

その足で門脇さんの新しい家に泊まらせて貰うことになった。前の家よりも若干小さかったがアメリカ風の二階に
ベッドルーム(バストイレ付き)が3部屋ある家であった。門脇さんも満90歳、二階は大変だろうと一階の方に
休める様に娘さんが配慮していた。

あくる日は娘さんのご主人が経営するセブ島の南端にある「ルビリゾートサンタンダー」へ約4時間かけて四人で
運転手の運転する門脇さんの車で行った。途中幾つかの大きな町を通り、ドイツ人の経営する眺めの良いホテル等
に立ち寄り「ルビリゾート」へ着いたら、昨日飛行機で一緒だった女性のグループ達がダイビングを楽しんでいた。

彼女らは74歳の老女を中心に51歳の若い女性が最小年齢の7人のグループであった。「スミロン島」の近くで
ジンベイ鮫を見たと携帯電話で大騒ぎであった。翌日その「スミロン島」にダイビングを教えてもらいに行く事に
なり、私は高齢だと言う理由でシュノーケルをつけた海中潜水だけとインストラクチャーが懇切丁寧に指導してく
れたのだ。だが始めてのシュノーケルで呼吸の仕方が分からず慌てて水中から浮き上がった。インストラクチャー
やフイリッピンの慣れた人たちが手助けしてくれ揺れる船の中では起つことも出来ずよっつんばいであった。

何回か練習をすれば上達できると思うが、年齢が身体を思うように動かしてくれそうにも無いことが分かった。

揺れる小船の中では海中から上がって風に当たればおなかを冷やすことになって、船酔いになってしまった娘の
身体が心配になった。船に乗る前にその娘から酔い止めの薬を貰って飲んでいた関係か船酔いすることは無かっ
た。いやあ、面白い良い経験を味わったものだ。冥土の土産話になること間違いない!

「ルビリゾート、サンタンデール」に2泊、セブ島のマンダウエー市の門脇さんの家に戻る。今回の「カジノ」
では2千ペソを磨ってしまう。博打とはこんなものだと心に刻む。

4泊5日のセブ島はアット言う間に終わりを告げた。帰りの飛行機には例の7人組のおばさんダイビンググループ
と又一緒に帰国。

年齢に似合わない旅行ではあったが、行くたびに門脇さんには好待遇を戴き感謝!

今回分かったことだが足の異常な腫れに病院に行って看て貰わなくてはと思っている。何時もの事ながら朝鮮冷麺
やキムチを食べると下痢をすることが多い。今回も帰国の飛行機の中では苦しかった。

新義州会(新緑会)

平成22年5月10日(本日)東京九段会館で題2回新緑会が開かれた。
新義州に関する同窓会は
「新緑会」新義州に居住していた日本人会
「義中会」新義数公立中学校同窓会
がまだ現存している。
戦後65年が過ぎたこの時期、朝鮮から引き揚げてきた日本人居留民は家や財産を失いほうほうの態で故郷日本の故郷に引き揚げて来た、戦後幾らか落着いた昭和27,8年頃、生活の落ち着きとお供に、勝手朝鮮の同じ町に住んでいた
同級生、友達、職場仲間起ちが日本の全国に散らばったまま消息が知れない者も多数いた。

新義州の場合は平安北道の道庁があった関係で地方の都市の者達も集ってきた。確か新義州の場合は石炭の問屋であった「太田庫次郎」さんが中心となって「新義州会」を開かれ「新緑会」と言う賢人会みたいなものを作られたと思う。
戦後は名かなか消息が分からなかったが年を追って会員が増えたものであった。
やがて所謂一世の方々が高齢となり、亡くなられていくに連れて、二世の時代となった。初めの内は10人を越える程
絵画盛大になて毎年一度の総会も散りあい、友達が集ることもあったようだ。

態州会も逢った。中学校、女学校、商業学校、工業学校、師範学校なども歴史は新しかったが、それとなく同窓会が
作られて行った。警察の会、鉄道員の会、郵便局の会など夫々職場の或いは学校の同窓会も段々と古年長者から高齢に
よる身体のやわって行く人も増えてきた。30年、40年と経ち、平成の世の中になった頃には徐々に会員が減って行くのは仕方ないとして、新義州の学校関係でも中学校同窓会のみが現在はまだ残っている、しかしこれも平成23年に
高齢の為閉じることになった。新緑会は当時小学生だった若い人たちが後を引継ぐ形で会を存続してくれる。

その新緑会が今日九段会館で開催された。今までの顔ぶれとは違った新しい役員が集って会を運営してくれるそうだ。
今日集った顔ぶれを見ると男の会員では望月君と小生が一番年長者の用であった。
女性会員では87歳の方がお二人参会されてお元気な様子であった。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。