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第一回北朝鮮旅行での思い出

新義州市には一般の外国人は勿論、朝鮮人でも新義州市
住人で無い限り出入りは難しいらしい。

さて新義州市の一部を中国旅行社の貸切り小型バス2台で
廻った上に駅を中心として20h軍ほどの近辺の散策を許
可されて、我々一同は新義州青年駅のVIP待合室に列車の
待合室でしばらく待たされた。一般の待合室と違って豪華
とは言えばいけれども、多少は賓客用に整備されていた。

待合室の壁には栄によって「金親子」の画像が張られてい
た。やがてホームに降りて新義州発、平壌行きの軟座車に
乗り込んだ。すぐ後の車両は食堂車であった。乗り込んだ
直ぐあと、列車は発車して間もなく税関検査が始まった。
女性には女性の税関検査院があたっていた。「定州駅」に
着く前に検査は終った。定州駅に着く前にホームに降り様
としたが各社にいる女性車掌が手をばつにして降りること
はできないと言う。

定州駅に着いた時に見えた懐かしいものは、プラットホーム
の西側にあった機関車に給水する給水塔と南山であった。
定州駅は京義線が出来た始から、平壌駅と終点の新義州駅と
の丁度真ん中にあって、機関車に石炭や水を補給する所とし
て機関区もあり機関車の交換もしていたそうだ。
だから小学校の時も同じクラスの友達には鉄道関係の子弟が
多かった。

そして駅のプラットホームから見えるもう一つの懐かしい情
景は米どころの水田の西に見える稜漢山であった。
高さ500㍍の稜漢山は小学校の時学校から遠足で登った事
もあるウ尼である。この辺は「郭山」と言う町があった。

更に車窓から見えたものには、「加納が丘」である。これは
日露戦争で始めて日本の加納中尉が斥候隊で7名の隊員と共
にロシヤ軍200騎と戦って全滅した忠霊塔が小学校の運動
場の中にあった。この石碑の周りでよくかくれんぼをしてい
たことを思い出す。丘の下は小学校の狭い運動場だったが、
運動会、放課後のドッジボール、鉄棒などで遊んでいた。

新義州駅から定州駅まで凡そ110km、また平壌駅までが
約115kmの中間点で日本人の人口は1,200人弱で、
小学校は220人位だったと記憶する。尋常高等小学校だと
言われ高等小学校は一クラスで二学年だった。何か朝鮮人の
生徒が数人いたような思い出がある。

定州駅を過ぎると、古邑、雲田、嶺美、安州、新安州と続く
ここからは平安南道となって平壌は近い。

平壌(ピョンヤン)は昔の町筋は全く朝鮮戦争の戦場となり
昔の面影は全く残っていない。そして北朝鮮としては首府で
あるピョンヤンを立て直してある。駅前のツインタワーホテ
ルは「高麗ホテル」に一行は40名宿泊することになった。

駅の近くの「国際飯店」で夕食となった。冷麺や焼肉なども
昔懐かしい。舞台ではチマ、チョゴリの妓生スタイルの女性
が三人ほどで色々歌って聞かせてくれた。アリラン、トラジ
などは一斉に合唱、生音楽でホールで接待員と踊る者もいた

コリョホテルの部屋はM.Y君と部屋を共にした。あくる日は
朝鮮観光旅行社のガイドが案内するコースを周り、今ひとつ
物足りなさを感じたものだった。
「平壌第一中学校」「サーカス」「万寿台」「戦傷記念館」
「金日成・・・」と言う記念館ばかりが多かったような気が
した。
帰途は順川空港から北京空港に戻り、成田へと帰国した。
平成4年(1992)の9月であった。

日本での友人、親戚、取引先の人々は「良く危ない朝鮮に
言ってこられましたね!」と感心して言ってくれたが、一度
危険な状態になったことは無い。ただ感じたことは、平壌の
町には、日本に在住している朝鮮総連の人たちが金に物言わ
せて商売をしているのが目についた。
「第一百貨店」では殆ど買うような商品が少なかったことも
貧しさを現しているようだった。
何か旧日本の残影が残っているような気もした。
この頃はまだ拉致者のことも公になっていなかった。




このホテルに2泊してピョンヤンの行きの列車に搭乗したら
直ぐ北朝鮮税関員が検査に来た。女性には女性検査員、男性
には男性の係員と慣れた諸動作であった。二本の新聞は持込
み出来ないと言う。他にもパス出来ない物もあったようだった

トラブルも無く定州駅に着くまでには終っていた。定州駅に
つく頃デッキで降りる用意をしていると女性車掌が降りては
いけないと言って両手をバツにした。
N.T君とがっかりした顔になって車掌に従った。一度町の中に
入って見たかったが次のチャンスがあだろうと諦めた。

定州駅のプラットホームに昔懐かしい機関車に給水する給水
塔はそのままで、後にはこれも懐かしい南山が見えた。
又車窓からは加納が丘に忠霊塔、石碑の代わりに二階建ての
建物が見える。何の建物かは近くで確認する以外には見当が
つかない。鉄道の回りには4,5階建てのアパートと思しき
建物が3,40棟建っている。国際列車は古邑、雲田と過ぎ
平安南道の新安州に入る、間もなくピョンヤンの駅に着いた

夕方に近かったので先ずは食事に近くの「国際飯店」にバス
は入って行った。全員がテーブルにつき、焼肉料理や冷麺が
机の上に並ぶ、ビールは日本製の「キリン」だった。

舞台では「生の音楽演奏」が始まり、チマ・チョゴリの女性
が二本の歌も披露してくれる。アリランやトラジなどの曲で
は皆避けに酔ってかダンスに興じる。楽しいひと時であった

宿泊は「高麗ホテル」であった。
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人生80年#

鴨緑江は中国語で「ヤール」と言う。ヤールとは鴨の胴体
の色の緑、藍色に似ていると言われる。
その鴨緑江に支那と朝鮮の国境を跨いで鉄橋が架けられ
たのは1905(明治40年)の頃だと聞いている。
日露の戦いで軍隊輸送の目的で日本政府が建設したのだ
と歴史にある。

私が中学校4年生の時、もう一つの鉄橋が同じく日本政府
の投資で架けられ完成した。その時、上流に水豊ダムも同
時に建設されていて実用に入っていた。下流の新義州では
毎年凍っていた鴨緑江が凍らなくなったのだ。

安東会の中国丹東市訪問旅行のツアーに入れて貰って、’
88年丹東市訪問旅行に参加した。北京、丹東、撫順、奉天
上海と巡り帰途の日航機の中で冷房が効きすぎ帰宅後に
風邪を引いて仕事に影響したことがある。

同じく1990年、我々中学校同窓会で鴨緑江周遊旅行を企
画したことがある。参加者は僅か20名であったが先の安東
会旅行の縁で交流が出来た丹東市の幹部達の厚遇を得た

鴨緑江の舟遊びを経験しながら、どうしても北朝鮮新義州に
入りたくなったのは当然である。帰国後、朝鮮総連系の旅行
会社(C旅行社)を通じ、新義州市を訪問する企画をたてた。
同窓会事務局を通じ、希望者を募ったら40名前後の希望者
が集まった。1992年9月会長の成田空港までの見送りと共
に旅行団は結成され、勇躍北京周りで丹東市から新義州市
に入境する企画は今更ながら興奮状態になったものだ。
母校があった新義州市には47年ぶりの訪れである。

北京から丹東市まで国際列車の寝台車で午前6時、懐かしい
旧安東県に入る、鎮江山、兜山、鳥居、沙河鎮、ビクトリヤ、
50年前が目の前だ。そして中国国際旅行社の小型バス2台で
鴨緑江鉄橋を渡り、いよいよ第二の故郷「新義州」に入る。
北朝鮮側の橋際の税関で持ち込み荷物の検査さある。私の
トランクにピストルらしき物があるかあr明けろと言われる。
危険な物は入っていない筈と空けると、丹東市の幹部から土産
に貰った「兵馬庸の人形」の頭部分がピストルに見えたらしい。
大笑いで済んだ。あの笑いの少ない朝鮮の税関員も大笑い!

我々を乗せた中国の小型貸切バスは税関を出て、本町通りから
旧税関、守備隊通りを「黄金町を折れて、東中学校前の新義州
青年駅に着いた。20分の余裕に付近を散策しても良いと粋な
ガイドの計らいで三々五々と駅前の付近を廻った。
新義州の町は朝鮮戦争で米空軍爆撃で町の建物は変わって
いたが、旧日本の建物は幾つかは残っていた。 「守備隊」
「道庁」「府庁」「税関」「女学校」「道立病院」「王子製紙工場」
「金融組合連合会」「測候所」新義州駅は爆撃で消失、新しい
駅舎が少し東側に寄って建てられていた。その名も「新義州青年
駅」となってVIP専用の待合所もあった。

後日1995年4月、再度「古山高麗雄」「N,T君」の三人で来た時
には道立病院も残っていた。
又グーグルの衛星写真では我が母校も校舎が増えていて確認
出来ないが恐らく爆撃に耐えてのこっていたと思う。

ピョンヤンでは多くの北朝鮮観光旅行者がガイドの監視の元で
決められたコースしか見られない卑屈な観光を強いられるのが
この国の仕来りである。

人生80年

昭和一桁生まれの私は、平成20年55年も連れ添った家内
に先立たれ、二人で購入した倉庫用家屋にをリホームして、
上階に三女の二人の孫娘の4人で住んでいる。

思えば長い人生だったが、振り返ってみると、アッと言う間の
人生であった。

昭和3年と言えば、記憶は無いが、今は北朝鮮になっている
朝鮮の西北部、平安北道定州郡定州邑に生を受けた。
それは人口一万人弱の内、日本人は1,200人程の小さな
町であった。小学校は全校生徒220人位の尋常高等小学校
で「加納が丘小学校」と言った。日露戦争で戦死した加納騎兵
中尉率いる7名の斥候兵がロシヤ軍に全滅させられた忠霊塔
が小学校の校庭の南にあった。
両親はしがない新聞販売店、文房具店他を兼ねた小売店商売
をして兄弟4人と隠居している祖父を養っていた。
そして昭和15年、道庁のある新義州の町の中学校に進学した
のである。5年上の兄が当地の商業学校に在学していたので、
兄と一緒に下宿して中学校に通学することになったのだ。

間もなく兄は上京して法政大学専門部へ進学し昭和18年の秋
「学徒出陣」で陸軍の電波部隊に入隊したのである。
昭和19年中学4年生終了時、私は「海軍甲種飛行予科練習生」
で鹿児島県垂水海軍航空隊へ入隊した。
その前に、我が家では、祖父の妹(父の叔母)が同じ定州の町で
「東江楼」と言う定州の町で一軒しかない「支那料理屋」を支那人
4,5人を雇って経営していた。その大叔母が父を呼び寄せたのだ
と聞いていた。

昭和20年8月、戦争は終った。10日ほどで隊は解散となり、朝鮮
の自宅には帰れず、熊本の親戚「狩場家」に一時身を寄せたのだ
何時までも居候もしておれず、長洲町の製塩会社に働くことにした
敗戦の世の中は食料も少なく、国民全体が飢えていた。間もなく、
延岡の旭化成工場のレーヨン部へ仕事を変え、工場の幹部から、
大分の臼杵に会社を開設するから来ないかと誘われたが返事が
出来ないまま、21年暮、ひょっとした機会に朝鮮から引き揚げて
いた直ぐ下の姉に会って、両親も朝鮮から熊本に引き揚げて来て
いることを知った。22年両親と一緒に生活することになったので、
熊本の語学専門学校へ進学することにしたのだ。

上の姉の主人である金子が大田区の小学校の教員で、都営住宅
が抽選で当たり、姪「奈美子」も朝鮮で生まれ、共に引き揚げて来
てまだ3歳の頃であった。狭い住宅には無理なので、宿舎のある、
仕事場を探し働くことで大学進学を目指したが、とても食うのが一杯
で、進学どころでは無かった。そのうちに幾つか仕事を変え、転々と
したが、学歴無し、特定住所無しの身には一流会社にも程遠かった
英会話を身につけ、働けるところならば何処でも良かった。銀座の
「松屋デパート」跡のアメリカ駐留軍関係の「JCE」Japan central
exchange,に働き出して、妻となる「路江」に出会ったのだった。

メインPXに1500人からの女性従業員がいるが、三階の時計修理店
に働く彼女に、この女性ならば一生共に生活できると感じた。
昭和28年4月、北区稲付町に部屋を借り、共に生活を始めたものだ。
間もなくPXは閉鎖、朝霞の「キャンプドレーク」の中のPX#55に再就職
した。路江は王子にある米軍補給所内の時計修理会社の分店勤めに
変わり徒歩で通勤を始めた。途中に実家の中十条があり、毎日立ち
寄れる楽しみがあった。部屋は炊事場も無い狭い部屋のみであった。

熊本から両親が上京して熊本の業界新聞社の東京支店を始めて、稲
付の家主の貸地の家(愛子とラーリー)を買うことにし、両親と共同生活
が始まった。父は上の姉の学校関係の分譲土地の東大泉の70坪の
土地が抽選で当たり購入し家を建てることになった。稲付けの家は一時
外人に貸し、3年後大家の爺さんに買ってもらうことにしたのだ。

土地は70坪で慶35万円、ローンで父親名義で登記したのだ。家も近所
の工務店に頼んで建築したが、お粗末な家であった。当時の新築の家の
周りはまだ家々も無く、畑の土ぼこりが舞っていて家の中は土だらけにな
った。そのうち私も埼玉県は平林寺の近くの大和田レシーバーステーション
に勤務が変わホンダの220CCのバイクで通勤を始めたのだった。
昭和31年初頭、長女「せつ子」が誕生した。両親は大喜びだったが、栄養
不足の未熟赤子だった。路江は良く働き、子供の養育に必死だった。
続けて32年、次女「あつ子」が生まれた。年子なので路江の苦労は並大抵
では無かっただろう。それでも共働きを続けて家系を助けてくれた。

昭和32年、駐留軍での働きをもうこれまでと思い転職することにしたが、又
田町にあった、アメリカ日系二世の経営する「クライスラー輸入代理店」に、
営業で働くことになった。しかし基本給は僅かで歩合給の仕事であったので
油断が出来ないものであった。先ずは新車の「ダッジ」を木場の材木店の
社長に買って貰えた。当時の価格は400万円であった。歩合は2万円だった。
続いて「いすず」の「ヒルマン」は価格100万円であったが谷中の根津製餡所
の社用にと売り込むことが出来た。この社長は当時の水泳連盟理事長だった

映画監督、映画女優、カメラ製作所、レンズの保谷光学社長の家は石神井で
近かったので夜中の12時頃に押しかけて行って買っ頂くことが出来た。
翌朝会社の経理に別の車が護衛して800万円の現金を受け取った。この時の
手数料は20数万円であった。こらh結果的に良く無かった。慢心して仕事を、
舐めたのかも知れない。顧客から車を預かり神田の会社の要望で名義を変え
取引に残金を取ることが出来ずに騙された形となり横須賀の土地と家の権利書
を金に換えるのに一年以上費やしたのだった。

横須賀の家は100年を経過した古い家で、山崎元陸軍中将の関係の方が住ま
われた家だと聞いたが襖や障子等建て付けがまでが緩んで夜中に倒れてくる
始末だった。路江は専ら二人の小さな娘の育児にも拘らず近所の米屋に働き
かけてこの古い家を買って貰うことに話をつけてくれた。50万円であった。
昭和33年、東京タワーの建設が日増しに高くなっていくのが、飯倉の「小太夫
さん」の家に行くたびに目についた。
昭和35年三女「むつ子」が誕生、健康的な大きい赤子だった。東京住宅分譲
抽選で期せずして中台の一戸が当たった。昭和36年であった。
三人の幼い娘達と喜び勇んで引越したが、39年、せつ子三年生、あつ子2年
生、むつ子幼稚園の時仙台に支社長代理で行くことになった。
翌40年、石神井団地に空きがあって東大泉の両親の住む家の近くに引越しに
なる。この賃貸団地に数年、子供達は大泉小学校に通学、この頃はアメリカの
出版会社でアメリカーナと言うエンサイクロぺディアの訪問販売会社に働いてい
た。昭和44年、新宿は大久保の高層住宅(日本住宅公団)の一室が抽選で当選
495万円のローンで入居することが出来て、せつ子は両親の東大泉の家から
石神井中学校に通学、あつ子は大久保中学校、むつ子は大久保小学校と成長

3年後の47年、高島平の分譲積立住宅に引っ越すことになった。せつ子は高校
へあつ子も広尾高校に進学するようになった。新宿の一室も貸室として家賃収入
を計ることになったが相変わらず私の仕事は不安定であった。
47年父親から東大泉の家も古くなって住み難くなったので、この辺でナショナル
のプレハブ住宅を建ててtみないかと言って来たので「高島平住宅」を売ってその
金で新築しようと言うことになった。高島平住宅を2,500万円で売り、2,000
万円でナショナル住宅を新築することになった。総二階188㎡の大きな家にした
昭和53年の年であった。前年路江の母親が脳出血で亡くなった。

路江はそんの頃、Hと言う出版会社で働いていたが、アメリカ研修に参加しせつ
子は「F工業㈱」に勤めていたが一緒に旅行に行くことになった。
ニューヨーク、アトランタ、フロリダと2週間の旅行であった。せつ子は会社に居ず
らくなって退社し、「Brij」に入社M.Hと縁あって、56年結婚式を挙げた。
あつ子も上智大学に、むつ子も駒沢大学に進学。私は高島平の家を売った残金
で何となく外国の商品を仕入れて卸す商売をしたいとオーストリアからスキー
スーベニア商品を輸入してみた。早速輸入品を何処に卸すか考えて、関越高速
Kエリア上り売店に売り込みに行った。3日ほど経った頃、売店長の「Hさん」から
電話があって商品を納入するようにと取引が始まった。
勢いを得て、他のサービスエリア(東北、東名、中央)を営業して廻った。
次第に納入先が増え、更に「Fランド」の23店舗にまで納入が出来るように
なったが、仕入先との不調和でFFランドの取引を止め。高速道路のPA,SAを
20店舗以上に取引が出来るようになった。

しかし納入に関しては夫々の店長、売店長とのコミュニュケーションが欠かせな
かった。時には店長と息が合わず、涙を呑んだこともしばしばであった。
平成4年、2月父が千葉の老人養護体験入居の最中。出された食事を喉に詰まら
せて死亡した、翌年母が上の姉の家で夜中にベッドから落ちて死亡した。

仕事も忙しくなり、まだ結婚前のあつ子やむつ子の応援によって、仕入れに中国と
言いながら、中学生時代の隣町の安東(丹東)旅行に行き、3,4回行くことになり
其処から見える中学生時代の新義州の町にどうしても入りたくなった。(つづく)






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新義州の町

道庁通り
新義州の町は北朝鮮観光旅行では開放されていない都市の一つです。
その理由は、先ず、国境の都市だと、ガイドの説明でした。
しかし私達は戦前、この町にあった日本人の建てた建物や施設、或いは鉄道、鉄橋、日
本人町や各学校の校舎などどうなっているかを知りたくて、是非見てみたかったのです。

鴨緑江の対岸の町「丹東市」旧安東県から、中国国際旅行社の小型貸切りバスを2台を
チャーターしてあの日本が建設した二本の鉄橋の内、新しい(昭和16年完成)橋を渡って
新義州の町に、入りましたが先ずは鉄橋際にある北朝鮮税関で審査を終らせて、市内に
入ることとなりました。

税関を出たところあたりから、昔の見覚えのある道路を市の中心に元日本人町のメイン通
りに向かいその入り口が上にある、画像です。

今までは入れなかった新義州の町の一番の思い出のある光景が間近かに現れたときは
、感慨無量の思いに立ちつくしました。
時、あたかも平成4年の9月でした。一行23名は涙が出るほど感激したものでした。

粋なガイドの裁量で、小型貸切バス2台は、市内の元日本人町のメイン通りを通って、税
関通りに出て、元守備隊跡の前を通過、戦禍で変わった朝鮮人町を経てこれもまた新しく
出来た「新義州駅」の前に着きました。その間、20分くらいだったと思いますが、元々新義
州に住んでいた我々一行は感激のあまり時の経つのが早く感じました。

「新義州駅」は「新義州青年駅」と改称されて多少東寄りにあたらしく建てられた駅舎にな
っていました。駅前でこの粋なガイドの計らいで更に時間調整の為、余った時間の間、駅
を中心とした身辺を、散策しても良いと許可を出したので、一行は上の写真の場所から、
突き当りまでの、旧道庁通りを、中に歩いて来たのです。20分の少ない時間を気にしな
がらの散策は興奮の余り、肝心なところを見ることが出来ず駅前に集合した一行も、しば
らくは呆然としてしまいました。

結局は小型バスで市内を巡回したことも、併せて2時間くらいあったでしょうか、充分に心
行くまで旧故郷の町は見られなかったことが返って又、この地に余韻を残す結果となった
ようです。

ざっと旧新義州の町を見て、元の日本人町にあった思い出の建物は、駅前の旧東中学校
校舎跡新義州府庁、平安北道道庁跡、旧日本人小学校校舎跡、王子製紙工場跡、新義
州高女校舎跡新義州税関建物跡、旧金融組合連合会建物跡、守備隊隊舎跡が目につい
たところです。

しかし後日(3年後)再度新義州の町に入ったときには、元平安北道道立病院の建物跡も
確認出来ました。この時は元芥川賞作家「古山高麗雄氏」、義中会20期、梨本丈樹氏と
私の三人が特別に市内に入ることができました。

新義州の町は1950年の朝鮮戦争で米軍の爆撃で殆ど消失して残った建物は極く稀だっ
たそうです。新義州劇場では観劇中の500人が戦禍に遭って市内の建物の大方は消失
したとのガイドの説明でした。肝心の我が母校「新義州中学校校舎」が未だ確認されてい
ませんが、グーグルの衛星写真でる限り、新義州中学校校舎は元校舎の残影が見えるよ
うです、ただし回りには別の建物が増設されているように見えます。これは道庁からの距離
の感じで推量されます。

帰りは「鴨緑江ホテル」には立ち寄らず、そのまま、南新義州方向に向かって一路、平壌に
向かって「いすずの「小型バン」は我々三人と運転手、ガイド二人を乗せたまま元来た路を
走りました。帰りに定州を見てと思ったのですが、辺りは真っ暗夜の8時頃となりました。

ピョンヤンの「高麗ホテル」に着いたのは、真夜中の12時、それからホテル二階の「焼肉店」
でビールを飲みながらプルコギを食べたのは良いけれど、ベッドに付いた頃に梨本君と私は
腹痛で何度もトイレに行ったのでした。
朝、古山さんに聞くと腹痛は無かったと言うことでした。焼肉とビールでおなかの焼肉をかき
混ぜたのだと思いました。プルコギ(犬肉)は消毒するのですが消毒が足らなかったのだと
思いました。

新義州の町は、北朝鮮の人でさへ検問が煩く、出入りは厳しく、まして外国人は殆ど入る事
はできないようです。あれから17年が経ちましたが、今もって北朝鮮は体制も変わらず、特に
日本とは正常化されていません。拉致の問題も、なんだカンダと因縁をつけているように見え
て相変わらず進展しません。
先月、朝鮮側から「新義州市に入れますが、労働党に一千万円を寄付して下さい」との伝言
がありましたが、要は金次第と言うことのようです。



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