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海外旅行Ⅱ

平成6年1月26日~31日まで「パリ6日間の旅」
同 年 11月25日~12月2日「イタリヤ旅行」
平成7年3月14日~20まで、「カナダ旅行」
同年6月24日~28日「ニュージランド旅行」

平成7年5月21日~6月2日「北朝鮮新義州旅行」
平成8年3月24日~31日、「北欧旅行」
同年10月4日~7日「タイ国旅行」
平成9年5月24日~29日、「オーストラリヤ旅行」
平成10年11月14日~19日、「英国旅行」
平成11年11月29日~12月6日「東欧旅行」
平成12年11月10日~15日まで、「南ドイツ旅行」


成4年から始まった海外旅行も、カナダ(ナイヤガラ
ケベック)、北朝鮮新義州、イタリヤの3回を数えた。
家内は私が北朝鮮に行く替りに、ニュージランド旅行
を次女家族と一緒に楽しんでいた。

北欧(フインランド、スエーデン、フランス)、続いて東欧
旅行(オーストリア、ハンガリー、チェコ)はオーストリア
のザルツブルグは特に印象に残った。ハンガリーに来て
この国を見直したものだった。フンガリーと言うのだよと
言うと家内は面白がっていた。しかしこの国のkとを知る
につれ、東洋人種も混じっているのだと知って益々気に
いった。ブタペストはブタとペストの二つの町で合成され
ているのだ。

英国旅行ではスイスからベルギーを経由してユーロー
鉄道でローバー海峡を一くぐりロンドンは如何にも英国
と言う風景が強かった。なんと言っても「大英博物館」、
のエジプト遺産は見ごたえがある。

又昔の中学同級の「望月君夫妻」とのドイツ旅行では、
ライン川の遊覧が強く思い出となった。ローレライは夫人
達の若き日を思い出させるあの「ローレライ」の歌が一斉に
合唱する様は乙女時代を彷彿とさせるものだろう!


そして南ドイツ旅行では望月夫妻と「ノイシュバンシュタイン
城」を見学してきた。悲劇の王様の物語は世のご夫人方の
涙を誘うらしい。
ミュンヘンからの航空路は朝鮮半島を真横に横切り日本海
に出て又日本列島の中部を横断して伊豆半島から太平洋
に出て成田空港に無事帰国、一年に3回の海外旅行は
心身ともに疲れる。

平成12年であった。間もなく家内は踏み切りで子供を避け
ようとして転倒、右足大腿部複雑骨折で大手術となった。
以来自転車は乗ることが出来なくなった。、平成16年自営
の会社を閉じることとした。

会社倉庫跡をリホームして、元の住家は賃貸アパートに変身
新しい住まいの前に「スーパー」が出来て足の悪い家内には
便利な住まいとなった。平成20年4月終わり頃、家内は突然
「脳内出血」で意識不明となり、入院58日目に黄泉の世界に
旅立ったのだ。それから2年もう海外旅行は終わりにした。

彼女は英会話が出来たので、外国での旅行には心配が無い
友達夫妻も買い物では随分と頼りにしていた。今頃あの世で
海外旅行の楽しかった思い出を思い出しているかも知れない

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インプラント歯医者

小さいな時から甘ったれの私は、多少受け口の口で、しかも
歯の手入れも悪く、しょっちゅう口内の炎症もあった。
平成に入って、仕事もすくし順調になって来たので、仕入れの
ために韓国、中国などに行くことがあった。

ある日次女が行きつけの歯医者さんで技術の高い歯医者さん
がいるから行ってご覧と言われてその歯医者に治療をして貰い
に行った。中年の如何にも熟練した歯医者さんであった。この
先生なら大丈夫だと信じられるような先生であった。

「貴方の歯列は曲がっているから、最近の技術の「インプラント」
をしては如何ですかと言われ、説明を聞くことになった。

なるほど最近の技術は高度な手術が出来て、苦痛を感じない
手術が可能だとのこと、だがしかし、上下を手術すると、300万
円は下らないとのことであった。

では上下同時に手術することは金額のはる事だから、貴方の
顎の骨もレントゲンで良く調べ、下の方だけしては如何ですか
レントゲンで見る限り顎の骨はしっかりしています。上は丈夫な
入れ歯にしておいて後日したければしたら良いでしょう。

治療期間は約三ヶ月です。思い切って先生に任せることにした。
それから毎週この歯医者さんに通いながら治療を続けた。
あの金属製のドリルが廻る音も気にならなかった。

麻酔も良く効いて痛みも無く、普通に食事も出来る。麻酔の切れ
るには多少時間を要したが、全て上手く行った。
上顎は総入れ歯だが70万円もした。
さてインプラントは下顎だけにしたのだが、手術後の請求書は
150万円上下併せて230万円、いやもっとかかったような気が
した。
毎年3回は歯の垢を削り撮ることも欠かせないことだった。

それから20年、毎年3~4回の歯垢を取ること以外には歯の痛
も無く順調である。

歯医者の曰く、貴方のは顎の骨の質が良かったから、歯医者の
専門図書にも投稿したいけれど良いですか?と聞かれた。
このインプラント手術は先生の腕も良いけれど、この20年間ビク
ともしない手術をして貰って300万円の価値もある。

今82歳だからあと10年~15念くらいは大丈夫ということだから
精々頑張って長生きしなければペイしないと思うので頑張って長
生きしなければと思う今日この頃である。

海外旅行

戦後、朝鮮の北部にいる家族との連絡が取れずに親戚に
頼っていたが何時までも厄介にもなっておれず、生活の為
製塩の会社に働いた。当時は塩一升と米二升が物々交換
の対象として塩は米に倍のかちがあった。

その米を親戚の家にお世話になったお礼として持参したが
そう塩ばかり食べてはいけないので、米と交換していたよう
だった。その頃はまだ18歳の若さで上級学校への望みは
捨ててはいなかった。

やがて語学の専門学校に入学することが出来て、製塩会社
での友達も誘い共に専門学校に通学した。
その友達は市内の駐留軍キャンプに英語の勉強を兼ねて、
夜間の授業に切り替えた。私も同じように夜間に切り替えて
より勉学に励みたかった。しかし思うようには行かず、諦めて
上京することによってより大きな希望を持ちたかった。

そして先に東京で教員生活をしていた上の姉の家庭に寄宿
して更に東京の大学進学の為、駐留軍に章句を求めた。
そして丸の内にあった米第五空軍の月島基地のストレージ
クラークとして働くことになった。英語会話の実地勉強になった
のだ。毎日が充実してアメリカ人GIと直ぐ友達になれた。
しかしその基地は一年も経たずに閉鎖となり、銀座「松屋」に
あったポストエクスチェン(PX)切り替えられた。

しかしここも2年ほどで閉鎖となり今度は朝霞キャンプドレーク
に鞍替えとなった。又其処から大和田レシーバーステーション
に(支店)に行かせられたが、そのキャンプは小さな米軍宿舎
でGIも200人程度の家族的ば雰囲気であった。
支店は朝10:00開店、午後5:00には閉店、開店時にはドア
の前はGIの行列で「オープンハリーアップ」と催促される始末だ
従って毎日決まった顔ぶれが親しく待っていた。GIスラング会話
で碌な英語しか覚えなかった。それでも楽しい仕事場であった。

日系アメリカ人が経営する、クライスラー車総輸入代理店に就職
したのは昭和31年であった。これも二世米国人は「国際興業㈱
に買収されて当時悪名高い「小佐野賢治」会長直接の配下に組
入れられ営業営業活動を叩き込まれたものだった。

現場は田町の泉岳寺付近にあり、毎日東京タワーの上に日に日
に伸びて行情景を見ていた。時に車販売で詐欺に遭い横須賀の
土地家屋を売るために泣き泣き子供二人と家内を連れて古い家
から通勤したこともあった。

年は変わり、アメリカの出版会社にも約8年ほど勤務したことも、
生活の苦しさを味わった。この時は東北、北海道地区の責任者
として家族と共に現地に住み東京オリンピック時は地方にいた。

戦後30年、思い切って雑貨輸入卸会社を夢見て独立開業を実
行に移して見た。始は試行錯誤で5年を過ぎた頃から、徐々に
利益を生み出し、へ製に変わった時点から後継者を育成したい
と考え三女夫婦に望みを掛けて見たが物の見事に失敗であった
昭和60年頃、中学校同窓会が韓国「ソウル市」で韓国人同窓生
を含めて80人ほどの同窓生が集まり戦前の母校を偲んだことも
夢のようであった。

続いて中国、北朝鮮の国境の町の鴨緑江周遊の旅を企画しおて
同窓生20名で思い出の町が覗ける中国の遼寧省丹東市旅行を
観光した。
平成4年、北朝鮮の国際旅行社の朴専務とご縁があって、早速
同窓会の事務局幹事と計らい「新義州市訪問旅行」を企画した。
約40名が参加、北朝鮮は危ない国と思われていた特別な旅行を
成功させたことは参加の同窓生の感謝の的になった。

家内の協力を得て、会社の利益は順調に伸びたが、時勢は変わり
つつあったことに気が付かなかった。

平成7年、フランス旅行のツアー参加を家内と楽しみ、続いて北欧
旅行、イタリヤ観光と二人で海外旅行の計画が楽しみになった。

カナダの船用ランプの会社が宣伝のカナダ、ナイヤガラ、ケベックの
観光旅行を募集していた。中学時代のK、Mに案内すると二人とも
夫婦連れで参加することになった。60年も昔の中学校同級生3組が
一週間のカナダ旅行を楽しんだ、初めてのナイヤガラは雄大な光景
で、稀にしか行けないケベックも異国情緒があった。

平成7年再度北朝鮮旅行の機会が出来て、「新義州会」の会員と北
朝鮮は新義州市に行くことになった。
次に・・・



持病

人間誰しも自分自身の欠点を人には話したくないのだが、
90歳を過ぎても尚矍鑠と元気に生活を楽しんでいる人を
見ると、羨ましいものである。

先輩に90歳の元気な方がいらっしゃる。一昨年、長年連
れ添った奥様を亡くされたが、一時は元気を無くしていた
が、最近は幾らかの持病も克服して、娘さん夫婦の仕事
関係のフイリッピンに保養に行かれた。10月の同窓会に
はフイリッピンからわざわざ同窓会に出席のため帰国され
又半年の長期保養に渡航されたのpである。

その方の8年も後輩の者にとってなんとも羨ましい限りで
ある。気候も良いし物価も安いので、気分転換にも良い
からお前も来ないかと誘われているが、此方の都合もある
ので返事はペンディングにしてある。

来年厚生省(現厚労省のフイリッピン地区の戦死者慰霊
ツアーがあるのでその際に一週間ほどお邪魔したい。

最近、筋肉疲労の為か、あちこちと筋肉苦痛を起こすこと
がある。整形の0医者に診てもらったが、薬を貰っているが
どうも治らない。持病としては、少年時代から慢性気管支炎
の持病をもっていることは分かっているが、毎年必ずと言う
訳ではないので、発作を起こした時にあ病院に行かなくて
はと気がつく程度である。春は必ず「花粉症」で悩む。
アレルギー性からか抗生物資薬が一発で治ることがある

15年前から「前立腺肥大症」になって、手術はしておいた
のでこのほうは毎日与えられた薬を一錠づつのんでいるの
で炎症を起こすことは無い。
これも5,6年前からだが高血圧も投薬に頼っている。

そして同じく5,6年前から夜中に寝ていて、脚がつる事が
頻繁に起こる。整形外科医で気スリを貰って飲んでいるが
効能はあまり無い。

そこへ、近頃、新型では無いが、帰還h支援を起こし、前に
貰っていた余った薬と孫の薬を混ぜて飲んでいるがどうやら
炎症は終ったようだ。それでも夜の寝ばなに機関紙に炎症
が発症してぜーぜーと棟が苦しいことが毎日続いた。
これも前年専門の医者からの投薬の余った栗の嚢から取り
だし飲むうちに治ってきたようだ。

11月になったら老人健康診断(無料)の検診を受けようと
思っている。何事も無ければ良いが・・

外出も苦痛になってきたようである。一日中過ぎると、夜中
に筋肉痛を起こす(こむらかえり)、医者から投薬を貰ってい
るがあまり効能が無い。
やれやれ年をとると、厄介なものだ!

翻訳(ハングル、イングリシュ、中国語)

我々の母校は、現在は北朝鮮だが、戦前は朝鮮西北部の
平安北道の道庁所在地にあった「新義州府」にあった、公立
の「新義州中学校」である。
当時、日本で一番小さな中学校と言われた。一年生~五年
生まで一学年一学級(50人)で全校生徒は250人であった

又開校も大正15年であるから終戦の時は第20回生が一年
生になって一学期夏休みに終戦閉校となった。

戦後はそれとなく同窓会が全国に散らばった同窓生が集まり
平成10年から15年頃が正にピークであった。

最近は終戦後64年になり同窓生全員が80歳を超えるように
なって来たので、年一度の全国大会には老齢が進み出席者
が段々と少なくなってきた。
同窓会幹事会ももう一年もう一年と言いながら、同窓会を如何
に閉じるかを考えている。
各学級に一割づついた朝鮮の子弟も熱心な一人を除いて、
全員出席しなくなって来た。韓国から日本に来ることは大変で
あることは当然として、日本人の出席者も大体顔が決まっている

ピーク時は180人前後だったのが最近では30人足らずである。
老齢による身体的な病気が理由になっている・
卒業名簿(同窓会名簿)を見ても1回生は100歳に近い。90歳
を超えれば、例外を除けば歩行も大変であろう。
同窓名簿の半数近くが「鬼籍」に入っているのだ。

私のクラスでも転校転入を含めて65人いた人数が三分の一以下
の20名を欠けた。中学生の頃は、あの北朝鮮の寒さと栄養不足
の時代もあって在学中に肺病関係の病気で10数名が亡くなって
いる。幸い戦争で戦死した者はいなかったが、長崎医専在学中
原爆で爆死した者が一名いた。朝鮮学生も半分は北朝鮮で不明
となって半分は韓国に南越したが老齢で半分以上が死亡した。
北朝鮮から南に超える際、スパイ容疑で銃殺された友人もいる。

韓国の人はあの朝鮮戦争で、アメリカ籍を取得移住した者もいる
同窓会の事務局に英文なら良いが「ハングルでメールを送信して
くる者がいる。こういうときは私がハングル翻訳を仰せつかる。

戦後64年経た今日、(16,7歳プラス戦後64年では82歳)目も
霞み、足腰も若いときのように機敏には動けないのだ。
新型インフラも恐ろしい。
「風邪を引くな」「転ぶな」「義理を欠け」は老人の鉄則だと聞いた。
用心していてもある日「プッツ」とおさらばかも知れない。
鳩山さんの友愛精神で残り人生を!余裕で暮らしたい^0^



流行歌

最近「殿様キングス」のメンバーだった、多田そうべいさんに
本願寺の信徒との縁でお会いすることがあった。
なかなかユーモアのある人柄の良さそうな紳士である。

私自身は「殿様キングスのことはあまち知らなかったが、「
涙の操」と言う歌は聞き覚えのある歌であった。

多田そうべーさんの人柄から見て、「殿様キングス」のことを
知って歌そのものに、子供の頃からの流行歌を思い出した。

戦前朝鮮の西北部の片田舎に生まれ育った者としては、
日本内地の「東京」が憧れであった。特に兄が東京の大学
に進学して、東京土産を持って帰省してくることが楽しみで
まちこがれたものだ。

人口一万人余の中で日本人人口は1200人そこそこの町は
神社のお祭りには「東京音頭」が町中鳴り響き踊りの行列も
あって子供ながら踊りの行列に加わったことを70年経った今
も記憶している。
私が小学校に入学する前後であるから昭和10年頃であった
と思う。
「東京音頭」「国境の町」「赤木の子守唄」「銀座の柳」などは
忘れ得ない。他にはやっていたものは「銀座の柳」「涙の渡り
鳥」「幌馬車の唄」「二人は若い」「旅傘道中」「小さな喫茶店」
などが思い出の唄である。

「君恋し」「道頓堀行進曲」「私の青空」「東京行進曲」「洒落男」

「酋長の娘」「丘を越えて」「僕は軍人大好きよ」「東京ラブソディ
などは帳場の「王さん」が何時も私を大きなひざに乗せて唄って
くれたものだ。支那人だが良く日本語を知っていた。

中学校に入る頃は、「酒は涙かため息か」「陰を慕いて」などを
兄からギターの手ほどきで覚えたものだった。
「男の純情」「ああそれなのに」「内の女房には髭がある」「旅の
夜風」「人生の並木道」「青い背広で」「もしも月給が上がったら」
「別れのブルース」「支那の夜」「何日再来」「名月赤城山」など
我が家が「レコード店」であったので何時も客が視聴していた。

陶器のコップの底に当時の流行歌者の顔写真が入ったものが
あった。「藤山一郎」「菊池章子」「双葉あき子」「みち奴」「渡辺
はま子」「霧島昇」などの顔があった。
「雨のブルース」「「別れのブルース」「誰か故郷を想わざる」や
「一杯のコーヒーから」「旅姿三人男」「湖畔の宿」「蘇州夜曲」
「煌めく星座」「暁に祈る」「湯島の白梅」「隅田川」「大利根月夜」
「新雪」「明日はお立ちか」
昭和18年頃から(中学四年生)頃からは、「若鷲の歌」「ラバウル
海軍航空隊」「同期の桜」「ラバウル小唄」「「加藤隼戦闘隊」と
銭辞職の濃いウアtになって行った。

その中に「湖畔の乙女」「湖畔の宿」「「東京の花売り娘」などの
優しい歌もあったようだ。
歌手も「藤山一郎」を始として「淡谷のり子」「「霧島昇」「菊池章子」
「渡辺はま子」「デイック・ミネ」「双葉あき子」「みち奴」「東海林太郎

「歌は世につれ、世は歌につれ」と誰か司会者が言っていたが、歌
は生活の状態を思い出すものでもある。懐かしさが胸に来る。
そして周りにいた関係のある人々を懐かしむ。







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