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西本願寺お彼岸供養

9月23日は秋のお彼岸で女房の亡き後、二回目菩提寺の
お墓に花や線香をあげてお寺の本堂で住職のお経が終っ
た後、広間で徒門会の総会が食事と懇談を交えてあった。

司会は元「殿様キング」のギター奏者の「○○そうべい」さ
んであった。流石にプロで名司会者ぶりであった。
「真龍寺」徒門会の副会長でもある。

いろいろとご自身の経験から来る、体験話も面白かった。

年齢からいって、70歳前後であろう!
目が老眼になって視界がぼやけて見えるので、友人に相談
したところ、目の中の隔膜を手術でとってしまうと明るくなると
いわれ、又手術は痛くなく、日帰りの手術で簡単だよと薦め
られたそうである。
副会長さんもとっくに手術をされて痛く無かったそうで、思い
切って手術をしたところやはり全く痛くなく、終ったあと目の前
が明るくなったそうである。やってよかったとの感想であった。

私の場合、やはり友人二人が既に手術を終って、そのような
話をしていたことがあって、お前も速くやったほうがいいよと
言われたことが4,5年前であった、
国立病院の女医さんに見てもらったら、貴方は目の手術は
しなくても良いと言われた。
人様々で、皆がコレは良いから良いとは限らない。
人間頭の良い人も居れば悪い人もいる。健康な人もいれば
病気ばかり続けている人もいて長生きする人、早く死ぬ人も
いて人間一様ではない。

目は老人になれば角膜が濁って、濁りを取れば目の前が
明るくなって世界が変わる。良い事は出来れば人に奨めた
ほうが良い。そうべいさんはきっと善意でお話したことと思う
しかし私のように老齢になってもその必要の無いものもいる
ものだ。

浄土真宗の信徒となって、まだ一年半、この度の真徒会に
出席して本当に良かったと思っている。近頃足腰が痛く若い
頃のように運動神経が鈍り、外出も億劫である。

70歳台ではこんなことは無かった。昨年女房が死んでから
「脊椎管狭窄症」にかかってからは足腰がままならない。
毎日の生活さへ苦痛になってきた。と言って、まだ生活の
欲望は減退していない。欲があればあるほどを死ねない
老人らしく穏やかな精神を心掛けなくてはと思う今日である

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義中会、中国、北朝鮮(二度)旅行

昭和56年頃(昭和26年頃からの勤め仕事)も続かず
営業の仕事も中々ありつけなかったので練馬に家を
新築した際、何か貿易の仕事をやりたいと、外国の会社
に手紙を書いて見た。オーストリアのスーベニアの会社
のパンフレットを見ながら玩具のようなスキースーベニア
を少し取って見ることにした。

高島平の団地の住んでいた家を売却、その金でナショナル
ハウスを(総二階144㎡)を建てたのだった。まだ両親も
健在だが、80歳半ばの年齢であった。
私は50歳前半の健康な身体であったが家内は姑や舅の
休まるようにと新宿の着物の会社に働いていた。
年頃の娘が三人いるので、着物の必要性を感じていたの
だったと思う。

私はただ思い付きの外国商品の販売をしてみたかったと
今考えると崖っぷちに立っていたのかも知れない。
オーストリアから商品が10種類、15箱くらいが送られて
来たが、さてコレをどういう風に売ればよいものか途方に
くれた。
幸い家を売却した残りの資金が残っていたのが助かった

しかし収入が無ければ直ぐそこをつく。オーストリアのスキー
スーベニア商品を抱え考えた。まだ完成していない高速
道路のサービスエリアの売店に委託でも良いけれど折衝し
て於いてもらおうと考えた末、関越高速道路の上り売店に
置いて貰うと上りのサ-ビス、パーキングエリアに交渉を
始めたが中々商談は進まなかった。

ある日、「上郷サービスエリア」の売店長から電話が入って
その商品を置いて見ようという事になったのだ。今も忘れない
「平野さん」と言う方で、九州の本部から毎週飛行機で飛んで
来るビジネスマンであった。

始のうちは、一月30万円も売れない月が多かったのだ、それ
では生活は出来ない。売店長は他に何かキーチェンでも持って
来たらと好意的であった。早速茅場町に行き売れそうな商品を
仕入れ売店に持っていったら結構売れに売れた。
後は取引売店を増やしていけばと往復の間、高速道路の売店
を歩いて廻った。東明高速の「富士川サービス」からも電話があ
り半年の間に10売店ほど増えたのだった。
出来れば高速道路の東京の入り口に近いサービス、パーキング
が効率も良くなるだろうと必死に営業を続けた。

関越、東北、常磐と三店舗を持つ同一の会社にも取引が出来た
そして売店が30箇所もある「遊園地」にも出入りするようになった
この仕事は特にお盆、正月と帰省客は観光客の多い夏のお盆を
中心に営業が伸びて行った。この仕事を初めて10年目には8月
¥1,000万円に及ぶ売り上げが二年続いた。

1988年、安東会で中国旅行会があり、昔行ったこともある丹東
市に10日間の旅行に行ってみた。それからが旅行に嵌って家内
とヨーロッパ旅行を考えることになったのだ。

中国の市政府の幹部は、行政官の上に共産党があり、行政を
監視しているらしい。人民委員会という名で極めて権力のある
組織である。
韓国もそうだが行政の役人になると、かなりの役職者が権利を
振りまいて良い思いをするらしい。

それから北朝鮮との国境では北朝鮮からの密輸が盛んである。

北朝鮮も密輸で潤っているらしい。これは何処の国でも有りうる
はなしである。

ある幹部に頼まれて、幹部の子息の日本留学の手続きを頼まれ
二年がかりでお世話したことがある。又上海の市幹部の息子は
13歳の頃から日本語を学び、正確な日本語を話していた。
この青年も日本留学を望み、ある人に保証人になってもらい、突然
私に電話をかけて来た。そして私の会社でアルバイトをしながら、
日本大学を卒業して現在は中年で上海市の幹部となっている。

幹部の息子で私が留学の手続きをした青年は留学当時全く日本
語を話せなかったが、語学取得の上大学で学び6年間の留学生活
で日本語も堪能となり現在は日本人のお嫁さんを伴って帰国して、
旅行社を経営している。

さて義中会は今年名古屋市のホテルで第35回総会を開催した。
出席者は少なかったが、実りある同窓会であった。

戦後10年ほどは、同窓会を結成するほど世の中が落着いて無く
昭和の40年ごろから各学年の消息が分かりはじめたものだ。
昭和40年始には、10人前後だったクラスメートが、平成に入ると
30名を超えた。残り20名以上は死亡であった。中には長崎被爆
で、朝鮮戦争で北朝鮮に銃殺された韓国人同級生も弟がいた。

有馬温泉でクラス会の時は20数名が集まったが、それが最高の
人数であった。1988年ソウル市で日韓合同の同窓会があったが
80名ほどの同窓生が集まったことがある。一度だけだった。

平成4年(1992年)北朝鮮の担当者と折衝の末、新義州市に入境
して北朝鮮5泊6日の旅行を同窓会で挙行した。総勢40名皆興奮
して国境の鴨緑江大橋を中国国際旅行社の借り切りバス2台で渡
たり新義州市内に入ったことがある。市内は北朝鮮の各市町村の
中では唯一日本統治時代の建物が残っていた。道庁、府庁、郵便局
王子製紙工場、税関などに少数の学校が残存していた事を確認した

平成7年、再度新義州を訪問したが、市の都合で入る事を拒否された
がしかし古山高麗雄さん、梨本さんと三人でピョンヤンから車で陸路
往復したことがあった。
4月29日の気候の良い日であった。道路の両側には桜、杏、林檎の
花が咲き乱れ正に桃源郷で夢見る境地を味わった。

龍川郡を通過して新義州市の入り口の三橋川橋に朝鮮保安隊の詰所
があった。24時間洪体制なら5,60人の保安員詰所だ。
橋を通って新義州に入る者の検問をするところである。若い女性が二人
自転車の荷台に今屠殺したばかりの犬を積んで若い保安員に身分証も
見せずに気安く声をかけて入っていくではないか、何処の国でも同じ事
でもあるが、つい見とれてしまった。

一時間以上も待たせられ、いよいよ新義州市内に入る許可が出て私達
を乗せた車は南新義州の京義線土手に平行して走った。見覚えのある
光景であった。車はまっすぐ「鴨緑江ホテル」の裏口に駐車してホテルの
ロビーで市の幹部が来るのを待っていたが、ホールは真っ暗であった。
電力不測から来るインフラの貧しさが分かるようである。
やがて市の幹部が来てガイドに「一応市内を一巡して直ぐ市から出て行く
ように」と言ったそうである。早速旧王子製紙工場跡の入り口付近を廻り
駅前を通って本町通りに出た。旧道庁前から旧中学校に行くべく左に曲が
り暫く行くと車止めがあってその先は通行禁止であった。ではと元来た道
に戻り、税関通りに出て平安神社通りを中学校方向に走らせると後から
黒い服を着た屈強な男が4人ほど同じく乗用車でついて来た。我々の車の
横につけて運転手とガイドに朝鮮語で何やら喋っていた。
ガイドがこの先には行くことが出来ないと車を元道庁立病院の門の中にと
バックして方向転換して元来た道へ帰ることになった。それjからは元の道
を帰って市内を出て行く事になた。不満ではあったが郷に入れば郷に従え
の例え通りガイドの言う侭になるを得なかった。車は1路ピョンヤンに向かっ
て帰途に着いたのだった。帰りに定州のな予定が定州につく頃は廻りは暗
くなって止むを得ずピョンヤンに向かった、高麗ホテルに着いたのは夜の12
時であった。5人で夕食はプルコギとビールで夜中に腹痛で七転八倒、犬肉
が胃の中で大暴れしたのだろう。朝職の時にはケロッと治っていた。

朝鮮国際旅行社は旅行者の日程を都合で良く変える。国際法では海外旅行
ではこう言う場合は全額返金である。国全体が遅れているのは専制国家だか
らであろうか!

話は元に戻るが、大同江ホテルで新義州行きを待っている最中、係りの案内
人が中々来ない、新義州に行くことにつぃて何かはっきりしない。
東京にいるとき朴○○と約束したことが守られていない。朴を呼べと再三言っ
てやっと来たが何だかんだと口をもごもごさせている。
約束を守らないならば直ぐ帰国の手続きしなさいと此方も興奮したものだった
やっと車が来たのは良いがこれも約束の「べンツ」では無く今まで朝鮮内を
廻ってきた「いすず」の中型晩であった。北朝鮮では道路がまだ未舗装の所
が多く、後部に20リットル入りの石油缶二缶に「ガソリン」を用意して出発、
安の丈、ピョンヤン~シニジュまでは旧京義国道の一般道路である。しかも
高速道路ではなく殆ど舗装されて無い砂利道であった。ただし、安州とか、
定州などのいくらか大きな要衝の町の出入り口は干そうがされてあった。

途中トイレが無いので草原の土手を見つけるとそこで皆で放尿したのだった
女性は連れてこられないツアーであった。









第35回義中会同窓会名古屋大会

平成21年9月14日(月)午後12:00~14:30
ホテル名古屋アソシア名古屋ターミナル 9階
              「プリエール」
毎年恒例の義中会の同窓会が今年は名古屋で
開かれた。何時もよりは出席者が少ないのは高齢
による健康の衰退によるものと考える。まして今回
は名古屋に於いての開催であった。

先年の名古屋大会は平成16年9月であった。
5年前であった。その時は「あかしや会」との合同
同窓会でもあったのだった。


出席して何時も思うことは、出席者の常連化で顔ぶれ
が殆ど決まっているのだ。偶に違った顔が見られるが
常連はきまっている。

さて今年の名古屋大会は少数と聞いたので大内君の
姉御(あかしや会7期)のやなぎさんに声をかけて見た
喜んでと言う返事を頂いた。
「あかしや会」からは4人の出席を頂いた。

出席者の最高年齢者は義中会7期の「門脇椿峨」先輩
で89歳である。10期2名、11期3名、12期1名、内
11期の1名が急病で欠席された。これが最高年齢者の
グループで、13期2名15期、4名、16期が6名、17期
が2名、18、19、20期が各1目づつであった。
一番若い20期の人でさへ77歳の喜寿である。

でも人数は少なかったが、実りある同窓会であったのが
終わってからの感想である。

89歳の7期、門脇椿峨さんはフイリッピンのセブ島にて
民宿を経営されている娘さん夫婦のいる町で素敵なアメ
リカ的なハウスを借りられ保養されていたが同窓会の為
途中帰国されての出席である。11月1日から又セブ島に
又行かれるそうだ・
10期の根元さんは新義州におられた頃はご両親が税関
にお勤めだったと聞く。お兄さんが義中1期であった。
遊磨さんは音楽家で何時も同窓会では校歌をピアノ又は
ミニオルガンで伴奏される。
このたびは11期の魚原さんに会うのが楽しみであったが
高血圧200で急遽欠席された。私が一年生の時の最上
級生で剣道の主将であった。終戦後に暫く住んだ熊本の
長洲町におられる。一度お目にかかりたかったが残念!
11期佐々木さんは義中ゴルフクラブのメンバーで私と変わ
らぬゴルフの腕前で同じく上達が見られなかったが造園業
を経営され「ヤンバン」である。
11期見志村さんは四国から来場されてお元気そうであった
12期松井和夫さんは中学時代お兄さんと共に柔道の主将
であったような思い出がある。
13期「岸恒雄さんは義中会の現会長である。中学二年生で
幼年学校に進まれ士官学校で敗戦で戦後は貿易会社の重
役を定年され義中会では一番貢献されておられる方である
13期北原さんは渋谷で電気店を営まれておられるが無口で
あるが、私の生まれた「定州」にいたことがあると話された事
がある。

15期は中学時代の同級生である。
榑林は中堅貿易会社の創始者で、中学時代からの実力者で
あった。
望月純夫は榑林、望月、小生の夫婦同席でカナダ旅行を共に
し、望月夫妻は小生夫婦とドイツ、オーストリア旅行に二度ご
一緒した仲である。最近は猟銃を警察に返したと言っていた。
香畠恭三は途中編入組で彼のご尊父は小生の小学校卒業時
の校長先生であった。

以下16期以降には近清君が戦後広島の警察官として知識が
豊かである。中学校のときは一番仲が良かった。
寺門昭隆君は今一番近くに居住している。お姉さんが小生の
上の姉と女学校で同級生、中村範昭君は寄宿舎で同室だった
野田弘之、吉田実君は今回の同窓会で初めて会った。
吉田君は宣川の小学校と聞く。

17期小平登志夫君は今回の同窓会のお世話係り、愛知県か
ら良く神奈川まで義中会ゴルフ会に参加していた元気者
佐藤幸夫君は北朝鮮旅行に参加していたダンデイな人物だ
由井淳君は鴨緑江周遊旅行で友達になった。モダンボーイで
sる。この二人は18期、19期山本哲二君は義中会の幹事で
岸会長の補佐をしている。20期の山田君は防衛大学教授を
定年「新緑会」の編集を任されている。写真撮影はプロ級だ

「あかしや会」からは四人の参席を頂いた。元あかしや会会長
「橋本京子」さんは長らくご主人(義中6期)と学校の先生をされ
ておられた方である。
長谷川やなぎさんは大内君のお姉さんである。橋本さんと同級
平岡先代さんは我々同級生に言わせれば「マドンナ」であった
そうである。イラストなどは見ごたえがある。
武藤良子さんは同級の福士君の弟の婿入り先の奥様、新義州
では「武藤文具店」を知らない人はいまい。

以上が出席者の身元の知っている限りである。
今回の同窓会は出席者が少なかったけれども実のある充実した
会であった。来年は9月1日九州で開催される。
生きていたら出席するつもりだ!

長谷川やなぎさんは大内君を通して会へお誘いして、お土産に
イタリヤスカーフを持っていった。2日後丁重なお礼の手紙を頂き
かえって恐縮している。
平岡先代さんも丁重なおはがきを頂いた。彼女の字は上品です


終戦

昭和19年4月1日、旧姓中学校四年生終了後、海軍
甲種飛行予科練習生に入隊し、鹿児島に半年間の後
千葉県の香取基地へ同期20名と共に配属された。

甲種予科練の進級は早く、半年で飛行兵長になった。

しかし海軍は星の数より、飯の数と言われて、古参の
一等兵にもぶん殴られたものだった。
香取基地でも航空魚雷の整備はやはり年季の入った
普通科、高等科整備の出身の古参兵士が主流だった

我々甲種予科練生は半年くらいの普通科訓練では、
飛行機に整備が済んだ魚雷を抱えて行くには訓練が
足りないと古強者達が魚雷の整備を完全にやるのだ
我々新米には立ち入る隙が無い。

魚雷は目標を見て、機上から目標の艦首を見極めて
戦艦、航空母艦なら深度を10mに設定する。巡洋艦
や駆逐艦ならばその大きさによって深度を3mから5
mとか7メートルに出来るのだ。そして整備が悪けれ
ば、魚雷は目標を外れたり、中途沈没したりで戦果
があがらない。ゼロ戦では一機一発の魚雷しか積め
ないのだ。魚雷整備は背人が重いと言うことが分か
った。

そして整備場から基地の雷撃機まで特殊のトラック
で二本づつ運ぶのだ。或るとき貨物を運転す者が、
足らなくて誰か運転できる者はいないかと上級者
が探していた。このような時運転が出来ると役に
たつのだと言うことを始めて知った。

さて終戦は昭和20年8月15日、天皇のラジオ放送
によって全国に布令された。
目標を失った将校たちは呆然となって身の置き所を
うしなったのだた。その点若い兵士は家に帰ることば
かり考えているようであった。

しかし戦後の市街は焼け野原となって多くの浮浪者
食べ物を漁っている世の中であった。
家は焼け、多くの戦災を受けた人々が職も無く、食料
も無く餓死者が多く新聞報道で知らされたのだ。

私も熊本の親戚に居候を続ける訳には行かない。
熊本県は長洲町の製塩会社で働くことにした。当時
※一升、に塩五合の価格であった。塩は貴重な商品
であった。親戚の家に帰るときには塩とにがりを持参
してお土産としたのだった。

休みの日には熊本市に出かけて行って、下通りや駅
前の闇市に行ったものだ。その頃は朝鮮人が我物顔
で日本の警察も無力となり、治安が悪かった。
米は配給だけでは足りず、田舎に買出しに行った。
田舎の百姓天下の時代であった。米は中々売って刳
れず、薩摩芋を60キロ担いで売れるときもあった。

町では「りんごの歌」がヒットして誰もが口ずさんでいた
やがて岡晴男の「ハワイ航路」などが流行歌であった。

昭和21年10月、両親と姉が朝鮮より佐世保へ引き揚
げて来た。姉は大分の工場へ住み込みで働きへ、私も
働きながら英語の専門学校へと、両親が小さな家を買
う事になり、より進学を目指して上京に志した。

昭和25年3月、上の姉家族いる東京の大田区へ進学
を夢見て上京をした。

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