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終戦、復員、熊本

海軍の香取飛行基地からの分遣隊のような「干潟」の駅
から歩いて十数分の台地と平地の崖合いの地には小さな
木造の兵舎が拾数棟あったが、どのような日程で過ごした
かは記憶に無いが、8月15日のポッダム宣言以来の我ら
の行動は、記憶が薄れてしまったが、思い出すままに書い
て見たいと思う。

確か終戦の日以来、この小さな部隊は、することも無しに、
毎日一週間ほど自由な毎日の生活の中で、夜になると、
全員で酒宴をするようになった。
一週間後だったと思うが、隊の幹部から解散についての、
話があった。そして復員手当てと言うものが支給される事
なったが、「復員手当て」は幾らだったか記憶に無い。あの
当時の給料は毎月「兵長」の給料は10円~13円位だった
と思う。それから見ると、復員手当ては「2,30円であったと
思う。貯金通帳には200円近くzった上に2,30円か200円
暗いが足されたように思う。と言うのは、その後熊本で、兄
が帰ってきたらその鐘を加えて、両親が帰ってきたら住む家
を買っておかなくてはと言う気持ちであった。当時の家一軒
の価格は多分1,000-前後であったように記憶する。

さて復員は手当て金の他に衣類(第一種軍装、夏冬)私物
などの他、食料など衣嚢に詰めて、復員列車に乗車した。
有蓋貨物車であった。貨物車の中は電気も無く、朝鮮に帰
国する朝鮮人がどの貨物車に一杯であった。
どのように列車を乗り換えたか記憶が無いが、錦糸町駅を
通過するときには東京湾が全面的に見渡せられた。有楽町
では日劇の窓ガラスが全部爆風で割れていたことを覚えて
いる。東京駅で多分九州に向かう列車に乗ったことは間違
い無い。どのように食事したか、用便をしたかは全く記憶が
無い。ただ覚えているのは京都駅で長時間停車している時
プラットホームのアナウンスが「今危険列車が入って来るの
で中尉して下さい」と言っていたが危険列車には「一等車に
赤ら顔の毛唐が缶ビールを飲んでいる姿であった。この時
初めて缶ビールを見た。列車は九州に向かって走っていた
「広島駅」ではプラットホームから市内の建物が殆ど倒壊、
市内電車は屋根が剥れ、道路の線路の上に立ち往生して
いた。これが「新型爆弾」の痕なのかとまだ原子爆弾の威
力だとは知らなかった。

関門トンネルは無事であった。熊本駅の手前に「玉名郡」
の高瀬駅と言う駅がある。ここに戦時中に朝鮮から引き揚
げた親戚がいることを両親から聞いていたので、先ずは
尋ねて見ようと列車から降りた。駅前に荷物を預けて、村
長をしていると言う親戚の家を探したが、サッパリ判らなく
尋ね当てる事が出来なかった。そこで熊本市の父方の親
戚を尋ねることにした。荷物預かり所に預けた荷物が紛失
していて預かり所の経営者は知らぬ存じぬと言い、警察官
を呼んで調べさせたが、皆目埒が明かなかった。
終戦後のドサクサであった。私もまだ17歳で社会に対応が
出来なかった時代であった。
多くの荷物を無くなしたが、貯金通帳、印鑑は身につけてい
たのだ。これが終戦後の苦労の始まりだったこととは気が
着かなかった。まだ精神的に未熟であったのだと思う。



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海軍甲種飛行予科練習生

昭和19年4月1日、鹿児島県肝属郡垂水町の航空隊に
入隊することになり、前もって、釜山の連絡線波止場に
酒豪することになった。
定州駅前で加納が丘国民学校の生徒達の旗を振って
の見送りに挨拶して列車にのった。その折、東京で、
学徒出陣で陸軍に昭和18年に入隊した兄の下宿先の
おいてある荷物の整理に母が下関まで同席する。
下関で吸収方面と東京方面に列車は別れ、関門海底
トンネルを通って鹿児島に向かう。鹿児島市では桜島
連絡船が30分おきに目の先の桜島桟橋に往復がある
波止場から航空隊までは何で行ったか記憶に無い。

航空隊と言っても、飛行機は見当たらない。何か可笑し
いと感じたが、団体の中の行動は一人勝手に動けない
入隊の手続きで、七つボタンの制服、それも紺の服で
いよいよ予科練習生になったのだ。新しい分隊は甲乙
に別れ、甲の第一班に配属された。班長は優しそうな
二等へ居そうであった。

日が足すにつれ、この予科練習生の丙種は飛行科で
あるが、内容は「航空魚雷整備」であった。
パイロットを夢見て飛行予科練習生に応募したのだけれ
ども、何か煙に巻かれた漢字であった。
入隊の上、官製品を支給された以上、やめたとは言えな
いのだ。

6ヶ月の普通科練習生の始まり、朝は6:00起床、朝礼
海軍体操、学科、体育、甲班は12名x12の144名だ。
乙班と共に288名の分隊が結成された。
分隊長は海兵出身の山本大尉だったことは今も記憶。

朝礼は海軍体操の他、円陣で軍歌を斉唱しながらの、
行進、たいそうの時間には桜島までの遠泳には巨大な
くらげに出っくわしたことには驚いた。今で言う「越前くら
げ」のことだった。

航空魚雷整備の学科、実整備練習、班長の掛け声で
気合は充分、三ヶ月経った頃から巡検後の総員整列は
段々と恐ろしくなった。
今日は気合がたるんでいる、行動が乱れていたとか、
屁理屈をつけては巡検後「総員整列」の号令がかかる
精神注入棒(バッター)を全員が殆ど毎夜食うことにな
った。日によっては一本、二本、或いは三本と班長の
気分次第であった12人の班長の気まぐれで決まった

三月が過ぎると右左舷で外出が出来るようになった

母が東京の帰り、汽車の中で知り合った垂水町の女性
(半農半漁)の家に、将校宿舎の経理兵長が下宿して
いて、私を尋ねて来た。以来巡検後の総員整列が終ると
この兵長の将校宿舎の厨房に行くといろいろ将校の食
事の一部を食べさせてくれた。中学同窓の出口、進藤、
中村などを誘い他の練習生には味わえない喰にあり付
けた。そこへ定州の名産の「りんご」が班長宛に朝鮮から
送られて来た。それ以来カッターの時間はお前は舵を取れ
といろんな意味で楽な練習生訓練を過ごしてきたのだ。
考えて見ると一種の「袖の下」で他の練習生よりは楽な
訓練生だったと思う。こういう軍隊があるのだから戦争は
負けるに決まっているのだ。恥ずかしい話だ。

しかも七つ釦の制服を着て歩くと、町では優遇される。
まだ幼い顔をした兵隊さんだと思われたに違いない。

このときは早生まれの私は若干16歳であった。だが
飛行兵長に進級していた。

六ヶ月が過ぎて11月、「航空魚雷整備普通科」を終了し
実戦部隊に転属されることになった。その前に配属先の
希望地を書かされたときに「朝鮮元山航空隊」を第一に
「北海道」を第二に提出してきたが、「香取基地」に他の
20名と共に配属先がきまったのだ。
早速両親に手紙で知らせたが、11月の寒風吹きすさぶ
寒い日に「垂水航空隊」を出発して、東京駅から両国駅
に行き千葉県の銚子の手前の「八日市場駅」に着いた。

ここは正に航空隊の戦闘機や偵察機、雷撃機が飛び発
つ第一線基地であった。が基地本部で行き先を告げられ
た時、再度唖然としたものだった。
それは、「八日市場駅」の次の駅「干潟駅」から歩いて、
数十分のところにあった、この辺の台地状の崖に掘られた
壕の中に航空魚雷整備場があった。まだ完成されてなく
小さなトロッコで土壌が運び出されていた。が中には整備
が完了して基地の飛行機に積まれる様特殊のトラックも
おかれていた。
台地の間には木造の小屋的な兵舎(10人~20人位起伏
出来る)が一〇棟ほどあった。隊長、病舎、士官棟、医長
経理棟、食堂、厨房棟などがあり一応200人程度の兵員
が生活できる部隊兵舎があった。

昭和20年3月10日、東京の夜空はB29の東京空襲で
真っ赤に燃えていた。あくる日東京出身の者は一度東京
に帰り安否を見て来いと十数名が東京の家を確認に行っ
たが、何人かは家が無かったと言っていたのを記憶する

「香取基地」も米軍の空襲、機銃掃射などを受ける。

5月頃になると米軍が「九十九里浜」に上陸して来るので
は無いかと竹槍で応戦準備が始まる。今思えば滑稽な
話だが当時は真剣だった。

海軍では泊り掛けでの外出が出来るので、所謂下宿と言
って、基地の近くの民家に話し合いで泊まり先が決められ
る。私も中の良い同僚、「W,H,M君達」と「木村さん」と言う
大きな家(庄屋さん)に3,4日おきに泊まることを決めた。
右舷の木板と衛星用具とお土産を持って6:00頃兵舎を
出る。お土産は「しらしめ油」に「酒保物品」これは」大いに
喜ばれた。
16歳の坊やには衛生器具は必要無いので放棄した。
他の隊員では銚子の遊郭に行って淋病にかかった者もい
た。毛じらみは「水銀軟膏」で直ぐ治ると下士官が教えて
いた。予科練習生は皆真面目だった。

真夏の暑い日が続いたある日、広島に新型爆弾が投下
されたとラジオニュースで言っていた。新型爆弾とは一発
で富士山も吹き飛ぶと言う「原子爆弾」のことだと分かって
いた。
9日には長崎にも投下され被害甚大と聞かされた。

8月15日、重大ニュースがあるので正午にラジオニュース
を効くようにと放送局で何度も放送していた。
その日隊員全員も隊長舎の前で玉音放送を聞いたのだが
ラジオの音声が悪く何を言っているのか意味が聞き取れな
かったが凡そ天皇の「耐え難きを偲び・・」を聞き戦争は負け
たのだなと感じた。隊長も医長からの解説でやっと納得して
部屋に閉じこもった。考えもしなかった敗戦、ただただ呆然
とした記憶がある。それから一週間この小さな部隊はする
ことも無く、毎夜宴会に明けくれしたような思いが残っている













回顧

私の通った旧制中学校は当時、日本の植民地であった朝鮮
は西北部、平安北道の道庁所在地にあった小さな中学校で
学年のクラスは一学級、55名のうち一割が朝鮮人学徒で、
我々のクラスにはそのほかに満州人子弟が一名いた。

五年制の旧制中学校だから全校生徒は300名足らずの全国
一小さな中学校と言われた。
しかし、校舎は二階建ての総煉瓦造りで、壁には蔦がはって
いて、校門の入り口にはヤンバン朝鮮人父兄の寄付による、
「奉安殿」前の玉砂利の上で必ず脱帽、最敬礼をしなくてはな
らない規則があった。

五学年だから、教室も5教室あって、他に職員室、校長室、事
務室、理科実験室、の他に校舎の西に武道室兼講堂があり
間にボイラー室と小使い室が校舎と講堂を繋いであったと記
憶している。

校舎の西側に運動場があって、塀の先は府営住宅が30件ほ
ど並び、その又先には、「肉饅頭」「ポウズ」を売っていた支那
人の軒先の低い家があった。部活の合間におなかがすくとそ
こへ、「パウズ」を良く買いに行ったものだ。今思い出すと下宿
の食事では足りなかったのだ。一時寄宿舎にも入寮したがも
っと事の量が少なかったと思い出す。

この町は朝鮮と満州の国境で日本で一番大きな川「鴨緑江」
が流れている。今では北朝鮮と中国遼寧省の境となって密貿
易も盛んなようである。私が住んでいた頃も朝鮮人、満州人に
加えて日本人も密輸をやっていたように思う。
例えば、満州側に行けば一時間の時差があって、こちらの町
よりは少し大きな安東市があり、ロシヤ風な物品が多かった。
満鉄経営の垢抜けた風習はエキゾチックな魅力があって、学
校でも無断で鴨緑江を渡って行く事は禁じられていた。だから
こそ禁断を破り密かな行動をとることがスリルが」あって愉快
であった。

夏はプロペラ船や人力車、豆タク、或いは徒歩で鉄橋を渡る
のが楽しくて殆どの日曜日には「ピロシキ」を食べに「ビクトリ
ヤ」に行ったことを思い出し、1990年代に何回も丹東市に行
っては向い側の新義州市を望見してくる。思いが募って、とう
とう1992年と95年にこの鴨緑江鉄橋を渡って北朝鮮に中
学同窓会の同窓会会員を集めては入国したことは我ながら
良くやったものと感動している

さて、中学生時代を回顧すると、若気の至りと思い出せば顔
に汗掻くことが多い。二年生の二学期12月8日、寄宿舎の
朝礼で舎監から、米英と戦争に入った旨聞かされた。それか
らと言うものは、軍事教練、夏休みの勤労奉仕10日間が督
励された夏休みは朝鮮の学校では短いので。早くから帰省し
て作業をサボったものだ。平壌と新義州の中間点にある「定
州邑」と言う町が私の生地であった。人口一万の内日本人は
千二百人位であったろう。中学校も、女学校も無かった日本人
子弟の進学は道庁のある「新義州府」「同じ距離の平壌府、
或いは満州の安東市が日本人子弟の行く先であった。中学校
高等女学校、商業学校と工業学校、師範学校が中等学校で
あったのだ、職業学校は日朝半々の入学を許された。中学校
は上記の通り5%の朝鮮人子弟は入学試験の合格率が厳し
い難関を通り越して入学を許されるので成績が優秀であった。

中東学校の軍事訓練では、平安神社参拝があっったが一部
の朝鮮人子弟の中では参拝を拒否するものもいたが、学校側
では黙認された。これは軍事強制のこの時代寛容なことであ
った。
もっとも、朝鮮人の中には、日本の併合を嫌い、独立運動を地
下で動いている者も多く、警察の目をくぐり、身の危険を察知
すると「キリスト教会」に逃げ込むことが身の安全を確保する
手段であった。定州の町には教会は一つか二つあったようだ
が宣川は数多くのチャーチがあって、宣川邑は朝鮮人の独立
運動の巣だと言われた。チャーチに逃げ込めば官憲の追手の
及ばない所として一種の治外法権的な場所であったのだ。

もっとも朝鮮人全てが拒否したわけではなかったが、キリスト
教の多い朝鮮人家庭では神道は受け付けられなかったので
あろう

昭和15年~19年頃の、中学校の月謝は、7円前後、下宿
代は足そう幅があるが15円~22,3円暗いと記憶する。
毎月の小使いは家庭によって違うが、綿脚の場合は3円~5
円であった。しかし小使いが心細くなると土曜日帰省して大
叔母に無心して5円から10円を貰うことが多かった。両親に
は内緒で!

三年生の頃、幼年学校と甲種飛行予科練に行った先輩が
母校に帰って来て「我に続け!」と行動で講演したことがあ
った。四年生終了の頃、20人ほどの級友がこぞって甲種
飛行予科練の受験に「鎮海」の海軍基地に行った。2日間
の受験の後、三浪津で列車を乗り換え京城で一泊、帰校
したことを思い出す。

昭和19年4月、鹿児島は垂水航空隊に入隊の知らせが来た

 








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