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海外旅行、イタリヤ、北欧旅行

1994年4/21~5/5までの2週間北朝鮮平壌、元山、金剛山、新義州を回遊

1994,11/25~12/1 イタリヤ旅行
11/25, 成田~チューリッヒ経由ローマへ レオナルドダビンチ空港
 /26, ローマ市内見学、コロッセオ、トレビの泉、 カンッオーネデイナー、
 /27 ナポリ、ポンペイへ エスビオス火山麓のポンペイ遺跡、
/28  フイレンツェ、ドウモ、システイーナ礼拝堂
 ./29  同上
 /30  バチカン王国
12/1 帰国 成田

イタリヤの見所はなんと言っても、ローマ市内である。「トレビの泉」
「コロッセオ」「サンピエトロ寺院」、「バチカン宮殿「では法王の旗が
翻っていた。
二日目の日程は、ナポリ、ポンペイでぽんぺおの遺跡は火山噴火
のすざまじさに驚愕、その当時から、支那人の貿易商の邸があり
色々な家の生活が見ることが出来て文化の進んでいたことが推察
出来て印象が深かった、
イタリヤ半島を縦断する「高速道路」のSAではお酒類が販売されて
おどろいたものだ。

フイレンツェの町は「ドウモゥ」の建物が目立つ。ミケランジェロの芸術
が名高いところである。イタリヤ人は明るくて騒々しい。ひげの長い爺
さんは「お前は日本人か?今度はドイツ抜きでアメリカと戦争をやろう
」とジョークを言っていた。周りのものはおお笑いだ。






大きい文字北欧旅行








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海外旅行(フランス旅行)(カナダ旅行)

1994(平成6年)或るスーパーの「フランス旅行」の企画が
募集された。目敏くその広告を見た家内が応募すると言
い出し、では二人で行こうかと便乗した。
1月26日~31日(5泊6日)の日程であった。
フランス航空会社の航空機には甘いフエイスのステ
ュワートが目に付いたが飛行機の中は満席でしかも
席が窮屈だったので暑くて13時間の機中は倒れそう
になった。ドゴール空港に着陸したとき滑走路の横の
草むらには野うさぎが多数飛び跳ねていた。

宿泊は凱旋門近くの「コンコルド・ラファイエット ホテル」
ブローニューの森も近くにあった。
2日目:エッフエル塔、凱旋門、コンコルド広場、ノートル
ダム寺院、シャンゼリーゼ通りのコースをバスで廻った
午後は自由行動で高島屋、オペラ座、オルセー美術館
プランタン、モンマルトルなどを歩き回った。
3日目はオプションでヴェルサイユ宮殿を見学した。
4日目は朝から蚤の市に出かけ図々しいスリに出会い、
     夜は「ムーランジュール」で食事
5日目はフランス航空で帰国の途に着いた。
6日目 朝11;30頃成田空港に無事帰国、
初めての家内との海外旅行は楽しく又他の国を探して
行く気持ちが湧いたものだ。

 
カナダ(ナイアガラ、ケベック旅行)        榑林、望月両夫妻同行文字色

海外旅行の楽しさを味わっていたところ、平成6年11月
クイズに答えてカナダに行こうと言う広告に応募した。
旅行費用は¥89,000-、同伴者¥100,000-
山梨の望月、大阪の榑林の両君に知らせたら参加しよう
と言うことになった。
1995(平成7年)3月14日~19日(フロントナックホテル)
ナイアガラ瀑布が魅力であった。
1日目:成田発17:25、午後5:00に榑林、望月両夫妻
     と集合空港で集合
     トロント~ナイアガラ:オックスフオード宿泊
2日目:ナイアガラ~トロント~ケベックへ
     ショッピング
     ケベック着夕刻    フロントナック城宿泊
3日目:ケベック市内観光(専用バス)
     市内観光、        フロントナック城宿泊
4日目:メープル街道:メープルシロップ農園
     ケベック発~モントリオール経由~トロントへ
               トロント、         宿泊
5日目:トロント発、気流の関係でアラスカ周りで
            カナディアン航空     
6日目:成田着13:30

 ナイヤガラ瀑布は一度は見たかったところ、ケベックも
 カナダ東部で滅多に行けないところだ。
 中学生時代の二人の級友夫妻の海外旅行は貴重だ

 気流の関係でアラスカを廻ったことも嬉しかった。

     
     シャトーフロントナックホテル





旅行回顧

考えて見れば若い時は毎日の生活を如何に収入を多くする
かばかり考えて仕事に夢中であった。家内と共働きは苦し
いながらも楽しい毎日であった。
長女が産まれ、次女が年子に生まれ、女房は子育てに専念
するようになったが生活は益々苦しくなったと思い出す。

仕事を良く変ええ昔の友人は「良く仕事を変えられるなあ」と、
侮蔑に似たような感想を言ってくれた。しかしその言葉には
特別に反感を持たなかったのは仕事を変えてでも収入を殖
やしかったのだった。学歴も中途半端、上京してコネも無か
った初めの頃は駐留軍、駐留軍が去ってからは民間企業
に職を求めたが、殆どセールス(営業)の会社にしか勤めら
れなかったのだ。それでも無我夢中であった。
昭和38年に東京オリンピックが東京で開催、その頃、家族
は三人の娘で5人家族になっていた。仙台の1年半、東京
に戻ってきてから住宅公団にすんでいたが、分譲住宅に
抽選で当たり新宿に住むことになった。毎月のローン5万円
ほどが苦痛であったが、又他の分譲住宅に当たったので4年
住んだいた新宿は貸家にして高島平に住むことにした。

両親が年老いてきたので、大泉の家を立て壊し、ナショナル
のプレハブ住宅を新築、両親と我々家族5人の7人の大家族
になった。上下二階44坪の大きな家となった。

平成4,5年両親は95,92歳の高齢で相次いで亡くなり、私
の仕事はささやかながら小さな雑貨輸入卸業を始めたばかり
であった。両親が亡くなる頃には業績も安定して、旧中学校の
同窓会にも出席出来るようになっていた。

1988年旧制中学校の同窓会が始めて韓国の「ソウル市」で
開催されることになった。出席者は日韓併せて100人を超す
盛大な同窓会になった。

1989年安東会の中国北京、丹東、上海旅行に加わり、翌年
母校同窓会の「鴨緑江周遊旅行」を企画した。参加人員は約
20名であった。2年置いて1992年、朝鮮国際旅行社の扱い
で「新義州訪問旅行」を母校同窓会幹事と企画、40数名の参
加を見て5泊6日の北朝鮮観光旅行を挙行した。勿論我が母
校のある「新義州市訪問」も兼ねて北朝鮮旅行である。


戦後初めて(50数年ぶり)に見る「新義州市」は他の都市より
も旧日本統治時代の建物が多く残っていて懐かしい光景であ
った。
1995年再度北朝鮮訪問旅行を企画、新緑会主催で北朝鮮
観光旅行を6泊7日の日程で挙行したのだが、肝心の新義州
市に入ることが出来なかった。33名の参加者は涙を飲んで、
帰国してのだった。
その時の旅行契約で、古山高麗雄、梨本丈樹氏との三人で
更に一週間の北朝鮮内観光を企画していて、残り一週間は
金剛山、新義州市を廻ると言うことになっていたのでガイドを
つれて陸路、金剛山、新義州市を廻ったのだ。おりしも北朝
鮮では国際スポーツ、芸術祭典を催していたのだった。

中国、丹東市、北朝鮮ピョンヤン市を訪ね夫々の地で有意義
な人たちと知り合いになった。
大きい文字
思いかけず北朝鮮は「新義州市」を目にして、感激してくれた
人々も何時も逢う度に感謝の言葉をかけてくれる。







コストコ

長女(娘、息子二人の親)から「コストコに行きたいので
と一昨日電話があって、今日15日埼玉県入間にある
「コストコ」に行ってきた。

アメリカの巨大食品ホールセラーで隣に三井のアウト
レットがあり、平日だと言うのに入り口では来客の車
が列をなしていた。

倉庫のような建物の中には駐車場が隣に併せて建っ
ている。離れたところにより大きな建物が三井アウト
レットである。前に3回ほど三女と来たことがあるが、
今日は初めて長女と着たので三人の娘とは全員と
来たわけだ。一度孫も連れてきたが娘達は纏わり
付かれて落着かないと言う。なので平日が良いだろ
うと着て見たがどっこい休日のように客が多い。

コストコと言えば日本では現在9箇所にあるそうだ。
新三郷、入間、札幌、川崎、金沢、多摩境、幕張、
尼崎、福岡の久山の九箇所である。

確か入会金が四千何可視かが必要で家族会員に
三女をいれておいた。カードの裏には顔写真があり
他人が借用できないようになっている。

店の中は大きな金棚が置く不覚まで並び、商品が
食料品をお中心に、電気器具、酒類、海産物、ピザ
寿司、家具、衣類、缶詰、冷凍物などアメリカ風な
包装で客を圧倒させる。だがしかし慣れてくるとその
アメリカ的な商品の並列が購買欲を煽る。

目玉にディナーロール(36個入り)はどの客もカート
に幾つもの袋を山積みだ。ピザは45cm資格の箱の
巨大なもので、握り寿司も又50個入りである。

戦後米軍キャンプの中にPXやカムソリー(生活用品
特安売り場)を思い出させる光景で客がアメリカ人で
無く日本人が主であるところが一寸違うのだ。

でもあのボリュームから商品が割安に感じさせるのだ

1時間ほどのショッピングで2万円ほどの買い物をした
結構雰囲気で楽しい買い物が出来るアメリカ風な所
であろうか。
多分はまった人たちは三日に上げず買い物をしにくる
ことだろう。


花粉症

毎年2月頃から、鼻水が出てくる、同時に涙がでて目の
周りが痒くなる。典型的な花粉症だ。

花粉症はこの十年、若いときはあまり気にならなかった。
多分毎日の仕事に神経が行っていたのだろう。

思い出せないが多分65歳くらいから重症に感じて来たと
思う。今では罹りつけの耳鼻の診察券を見ると毎年同じ
月にかかり、5月には病院には行っていないのだ。
何時も病院では4種類の薬とうがい薬を投薬される。
老人保健を使っているが三割負担だ。一階の薬と診察代
が約¥2,000-位だ。

鼻、耳、咽喉と順番に診察を受けている。

秋は花粉症に無縁である。
最近子猫が大きくなって毛も飛び散るのではないだろうか

花粉症が過ぎると体調も良くなってくる。

元新義州住民懇親会(新緑会)

毎年会合が行われる「新緑会」は今年も5月10日午前
11;00~「九段会館」に約40名ほどが集った。
最高年齢者は旧高等女学校あかしや会の会長橋本さん
である。年々高齢者の出席が減っていくのは残念だが、
止むを得ない。そして最近は若い会員が中心になって会
を運営するようになって来た。とは言っても75歳くらいが
一番若い老人クラブの様相に相成った。

1945年日本の敗戦と共に日本内地に引き揚げて来た
人たちが訪れることが難しい北朝鮮にあった「新義州」の
町を故郷に帰ったような郷愁親睦会である。
戦後10年ほど経った頃の昭和30年台後半に現在の会
員の親達が日本全国に散らばった元新義州在住住民で
あった人たちが結成した望郷の会である。今では先人達
の意思を継いで引き続き毎年集ることになっている。今年
で51回の総会である。

集った会員は全員その当時少年少女だった頃の時代で
小学校、中学、女学校時代を懐かしがって仲の良い友人
を誘って出席してくるのだ。

もう14年の過去になるがその3年前に中学校同窓会で、
新義州訪問旅行を「中外旅行社」の扱いで新義州市内を
一回りしたことがあって、更にこの「新緑会」で新義州訪
問旅行を企画し5泊6日の北朝鮮ツアーを行ったことがあ
るその際新義州市に鴨緑江鉄橋を中国のバスを借り切っ
て渡橋して税関で新義州の警備隊の者達に「よって強制
的にピョンヤン行きの列車に乗せられ目的である新義州
市内宿泊が反故にされたことがある。その時ツアーに参
加した長崎から来られた都玲子さん、富山から来られた
西田順子さん、ともう一人の方々とお会いすることが出来
懐かしくその時の思い出を話し合ったことが楽しかった。

「新緑会」の会長も若返って私よりも6歳も若い方が張り
切っておられた。望郷の思い出は尽きないものだが一時
間前に同級であった身延から参加された望月君と会場で
別れた。お互い高齢になったが出席できることはまだ元気
だと言うことで「寿」ぎである。

中学校同窓会は再来年を持って最下級の人達でさえ77
歳の喜寿を迎える。平成23年の暮の同窓会会誌を最後
に閉会する予定となった。
戦後64年、多くの方々が見えなくなったが、その新義州
を思い出せるように、静岡の富士霊園の中に「新義州の
記念碑」なるも物が完成し除幕式が4・16に40名ほど
あつまて祝ったそうである。

↓新義州市内の一番の中心地で突き当たりの建物は
統治時代からの平安北道道庁庁舎である。
撮影している人は「11期佐々木さん、前の二人は8期
有馬さんと古山高麗雄さん」1992年9月写す




道庁通り(突き当りが旧道庁庁舎)


アメリカンショートヘアーの子猫を貰いました。

3月中ごろ近くに住む次女がアメショーの子猫がいるけど
貰わないかと言ってきたので孫達の情操教育にも良いと
思うので貰うことにした。アメリカンショートヘアーの雌で
生まれて7ヶ月の子猫である。
連れてきた来たのは良いけれど、急に住む家が変わると
恐怖で部屋の隅に逃げ込む。あまり人に懐かない子猫で
ある。特に周りの音に敏感で恐れてベッドの下に逃げ込
んで出てこない。しばらくは餌も食べないので孫達も心配
して声をかけて撫でようととするが恐れてちじこまっている
子供達の大きな声、物音にビクビクしている。
借りてきた猫の例え通り我が家族の者達に懐かない。

だが、一週間もすると少しづつ慣れてきた。漸く餌を食べる
ようになり段々と部屋の中を歩いて廻るようになった。
一ヶ月もすると飼い主の見分けも出来るようになった。そう
なると可愛いもので「ナル」と名前を孫達がつけた。

最初の頃はベッドの下で寒いのに夜通し寝ていた。寒いだ
ろうと心配して何とか引っ張り出し枕元に泣かせていたが、
布団の中には絶対に入らない。今までに飼っていた猫達は
必ず暖かい布団の中にはいってきたものだがこの猫は違う
ようだ。しかし大分慣れてきて夜は枕元に寝るようになった

猫じゃらしにも反応してよく遊ぶようになった。特に小さな
ボール状の物には動くものに対しては走り回るのが子猫ら
しい。アメショーの猫はヨーロッパからアメリカに移住して
来た人たちが鼠退治に船で連れて来た経緯があると言う
活発な良いねこである。

あれから三ヶ月、子猫は大きくなっていまや成猫の域に達
している。一階から子供達の寝ている三階まで走り回って
いる。活発な猫で、フローリングの床を小さなボールを追っ
て走り滑っている。夜は私の枕元で一緒に寝ていたが、
最近は3階の孫と一緒に寝るようになって朝早く寝ている
私の顔に飛び上がってくるのでびっくりして目が覚める。

我が家の家族の一員になって気儘に遊んでは気の向く
ままに一階から3階の気の入った場所でねているので、
何処に行ったのか探すことが多くなった。
ともかく元気でよく動く賢い猫になった。





朝鮮西北部

1910~1945の間、日本は朝鮮を併合、総督府を置
いて武圧統治してきた。日露戦争の後の時代は知らな
いけれども、私が物心ついた頃は、町の中心は日本人
の権力が強かったのを見てきた。
町一番の実力者は日韓併合の頃、日露戦争が終わって
間もなくの警察は憲兵隊の支配下であったらしい。
その憲兵隊分隊長の位に当たる人が警察署長になった
と聞いた。小学校の頃はその実力者は老齢のため定年
で立派な家にお住み、家作を沢山持っていたようだった

小学校六年生だった頃その人は老衰で死に、町をあげて
の葬式は盛大であった。
察するところ日露戦争に勝利して日本が朝鮮全土を統治
することになったことは各地にそのような利益を得る日本人
が大勢いたのだ。しかし町は落着き1920年頃のような
「万歳騒ぎ」は起こらない秩序が保たれていたようで私も
なんとなく育ったのだ。

ところが日本の軍閥政治が始まり、満州事変、支那事変、
大東亜戦争と戦争に国民が勢い立った。今北朝鮮の政治
を見るようだ。あれから60数年、社会の科学も進みその頃
の事情とは違うが現代の北朝鮮を見ると日本の戦前、戦時
中の頃と良く似ている。

1995年に北朝鮮のかって住んでいた定州邑に予てから
行って見たいと思っていたことが実現できたのだ。
少年の頃、定州の町から平壌、新義州、安東県の間を、先
輩の機関車運転士に機関車に乗せて貰ったその区間を、
今度は平壌~新義州までいすゞのバンに乗せて貰って、街
道を往復したのだ。
汽車で平壌に行く際、定州駅で降りようとすと車掌がホーム
にも降ろさせない。駅舎の表側にはかって育った町がある、
どうしても町の中に入って様子を見たいのだ。
それが実現に漕ぎ付けた。
機関車に乗せてもらった頃急坂やトンネルがあり、その場所
をきおくしているかと言えばそうでもない。しかしおぼろげなが
ら、山々や川、鉄橋、トンネルなどおぼろげにおぼえているも
のだ。車で街道を走ったことは無いが、およそ街道の道筋位
は検討が付くかもしれないと思ったがやはり記憶とは違って
いた。良く夢を見たこの通り道である。60数年の記憶は全く
違っていた。

道路は少し大きな町の出入り口は干そうされていたが、概ね
砂利道であった。バウンドで車の天井に頭をぶつけることも
何度かあって、大きな川を渡る橋には欄干に日本の字が彫
ってあった。平壌から新義州まで210数キロと往復8時間の
車内は苦痛も感じた。途中休み場所もGスタンドも無い。

「金日成主席銅像」もあちこちにあって人民は頭を下げ礼拝を
しなければ不敬罪と言うことであった。昔の日本天皇崇拝と
同じことだ。
道路は狭くて砂利道だが、両側の並木道に桜、杏、桃、りんご
などの木が植えてあって、5月の気候と相俟って正に「桃源
郷」であった。
冬の寒さは零下20℃くらいまで下がり、時として-30℃を下
廻ることもあった土地である。降る雪こそ少ないが、10月末に
初雪があって以来翌年の4月まで雪の解けることはない。
正月用に搗いた餅も凍って槌で叩いて割る始末だ。
スケートリンクに張った氷も硬く倒れても水分が少ないので濡
れことは無かった。そういう自然の寒さだが、家の中は暖房で
暖かく裸でもおられた。

さて平壌(ピョンヤン)~新義州(シニジュ)まで少年の頃何度
か汽車で通った経路は車で初めて元京義線沿いにはしって
見る。
記憶よりも橋や坂は少なかった。峠などもあることはあったが
割合に平安道は平伏の少ない土地柄であった。
道路にはトンネルは一つも無かった。峠のような坂道は幾つ
かあったが起伏は至って平らで住民は過ごしやすいことだろ
うと思ったくらいだ。

新義州市の入り口に三橋川があって、その橋が新義州に入る
検問の30人位の保安隊員の詰め所があり厳しい検査がある
周りの部落から物産を運び入れる業者は顔パスだ。堵殺した
犬を自転車の荷台に積み二人の若い女性が笑いながら挨拶
をしながら通って行く姿は何処でも見受けられる。
何かそこに物語があるような情景だった。

一時間余余り待たされて、鴨緑江ホテルのロビーに来るよう
にと市の幹部からの電話でやっと車は橋を渡り南新義州を通
り抜けトロリーバスの架線沿いにしないに入った。鴨緑江ホテ
ルは一度前を通ったことのある場所で分かりやすかった。
暗いロビーで待っていると市の幹部が来て市内を廻ることは
禁止されているが特にその辺を廻って直ぐ出て行くようにとガ
イドに命令していたが、鉄道線路の北側の元王子製紙工場
跡を見たいと言うことで中に入ったが工場跡は殆どが4,5階
建てのアパートが数十棟ほど建ち並んでいた。

運転手が一回りすると帰路に行こうとするので市内を廻れと言
い市内の元繁華街の本町とおりに行き元道庁に突き当たり左
方に折れ元中学校方面に行こうとすると前に車止めがあって
引き返し税関通りから元平安神社の前の通りに出て行くと
黒服を着た男達が車で追い越しざまに運転手と話している。
この先行ってはならないと注意しているのだろうと感じた。
運転手は元道立病院の門の中に車の後部を入れ方向転換
して元の道に戻った後のは危険を冒しても強硬出来ないと
市内から退去することにした

と言う訳で市内を隅々探査することは初心の目的から達する
ことは出来なかった。
以上が新義州市潜入の経緯である。
「芥川賞作家古山高麗雄さん」とご一緒し彼の生家の前に
立たれることの出来た新義州潜入記である。








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