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宇宙航空開発調布センター

4月19日(日)孫娘が勤めているJAXA宇宙航空開発
調布センターで一般公開があると誘われたので、急遽
三女と小さな二人の孫娘の4人でセンタ-に出かけた

広い敷地に多くの研究棟が散在していて1~順序良く
見学して廻った。沢山の見学者が子供連れで来場して
いた。小、中学生の子供達の人気の研究館は何と言っ
ても航空機操縦シュミレーションとヘリコプターの搭乗
体験シュミレーターである。
又風洞の風速体験も子供達が頭の髪の毛を抑えなが
らキャーキャーと遊んでいた。

広い敷地の一部には現役の小型飛行機が三機展示し
ていた。説明員の話によるとロケット実験はオーストラリ
ヤのアデレード近くで実験しているそうだ。
宇宙航空研究施設はこの貼付の他に筑波の他い幾つ
かのところにあるらしい。ロケットエンジンの研究は福島
の角田にあることは40年前仙台にいた頃行った。
筑波研究所は有名で日本人の誰もが知っている。
種子島のロケット発射試験場も有名である。

航空機の操縦体験シュミレーションは体験志望の長い列
にも拘らず、一度体験して見たかったので30分程待って
座って見た。操縦桿を握っても思うように行かない。
何度も着陸でバウンドを重ねて失敗であった。本物の航空
機であればとっくに死んでしまったに違いない。
ヘリコプターの場合は搭乗だけの体験であったが酔うような
気がした。

中学生の頃はパイロットを志望していたが、やはり感覚的に
無理であったかもしれなかったと思えばなれなくて正解だと
思ったものだ。

これからの宇宙の研究にいろいろな障碍を予測して人間の
叡智を研磨して研究する施設に働くことは我が孫娘ながら
たいしたもので鼻が高くなる。
若い人は古い人たちを超えて地球以外の惑星を調べて科
学を研究して欲しい。

下のワッペンはNASAのシャトル「コロンビア号」のものである
各シャトル毎にこのようなワッペンがあると言う。

コロンビヤロゴマーク腕彰(刺繍)
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韓国映画

級友から韓国の映画が面白いぞとメールが入った。
「大祚栄」テヨジョヨン韓国KBS映画だと言う。
早速「渤海国」を調べてみた。渤海は西暦698~926年
満州から朝鮮半島北部ロシヤの沿海地方にかけて、存
在した国、高句麗滅亡後にその遺民である大祚栄により
建国され、周囲の国々と交易で栄え、中国からは海東の
盛国と呼ばれてが、最後は契丹(遼)に滅ぼされた。
長編の韓国KBS大河ドラマで、「レッドクリフ」と同じように
面白そうな映画だと思う。

最近日本の若者や女性達の韓国ブームで韓国旅行は、
大盛況でると聞いている。

歴史を調べると大筋下記の通りだ。
西暦668年の高句麗滅亡後、高句麗の遺民達は唐によ
って栄州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられた

668年に唐で武則天が即位すると、内政が混乱を始める
この動揺を突いて、同じく強制移住させられていた契丹
が暴動を起こした。この混乱に乗じて、高句麗遺民らは
粟末靺靺人指導の下に高句麗の故地に帰還、東牟山
(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震
国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄
は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で玄
宋皇帝が即位すると、713年唐に入朝することで独立を
認めさせることに成功し、「渤海郡王」に撒封された。

又、「レッドクリフと」は三国志の中の「赤壁の戦い」から
その物語が映画化されている。
いずれも中国(支那大陸)の中での舞台である。

高齢者自動車運転免許証講習

4月8日はお釈迦さんの日である。そんなことは忘れて
いた。
先に警察より免許更新の前に高齢者運転講習を受ける
ようにと通知が来たので、講習所に電話で予約をとった
が予約の日に早めに講習所に行ったら違う公講習所に申
し込んでいた。改めて行った先の講習所から電話で申し
込んだ講習所に取り消しを頼みこの講習所に予約した
が約2ヶ月程延びることになってしまった。
その日が今日4月8日なのである。

朝9時15分、講習の手続きが始まる。この講習所は、
三年前に講習を受けた以来になる。6人の老人が講習
を一緒に受けることになっていたがどなたも私より年上
に見えるが、聞くとみんな私より4,5年若かった。

高齢になると若い人よりも反応が鈍くなるので、その
反応の検査がある。目の検査でも意外に視力が鈍って
いるものだ。でもすれすれで何とか合格ラインであった。

実技の自動車運転場内の運転も55年の経験がものを
言う。検査員に教えたいくらいだ。
高齢者運転講習終了証明書を貰い、後日警察へ更新
の手続きに行かなくてはならない。
まだ孫の塾への送り迎えがあるからだ。夜の運転は若い
時のように簡単ではなくなった。
娘も私の運転を心配するようになったが、本人は確実な
運転が出来ると思ってるが今日の検査で我ながら老い
たなあと思うようになった。
何時まで運転できるだろうか?もう81歳になっている。


妻(路江享年78歳4ヶ月)を偲んで

妻(路江)が去年の4月21日に浄土へ旅発って丸一年
が間もなくやってくる。昭和27年まだ敗戦の色濃かった
頃の銀座には駐留軍の兵隊が闊歩していた。
旧「松屋百貨店」跡の建物は中流連合軍兵士のための
物品販売所のPXに彼女はコンセクション(軍以外の民間
業者)時計修理の会社で受付の仕事をしていた。

午後5時には弊店、知り合って良く後楽園スケート場に誘
い得意のスケートを教えて仲良くなった。給料日には銀座
の「天竜」餃子店にも毎月必ず食事をしに行ったものだ。
スケートと言い、餃子と言い、戦前朝鮮西北部の鴨緑江畔
で生まれ育った私にとっては馴染みのものである。

彼女は戦時中両親が御徒町で米の問屋を営んでいたが、
戦時体制の折、食料統制で米問屋が出来なくなり父親は
静岡に疎開戦後間もなく亡くなったそうである。
印象は東京育ちにしては純粋な心を持った女性であった。
又江戸っ子の気性も持っていたように思う。どちらかと言う
と弱い立場にある者に対しては情をかけるやさしい女性で
楽しい人柄でもあった。何時しかこの人と生活を共にしたい
と言う気持ちが募っていった。

昭和28年4月5日北区役所に入籍の届けを二人で出した

北区稲付町に部屋を借り共働きで銀座に有楽町駅を降りて
PXの職場に通い始めたがこの「松屋ビル」にあるPXは閉鎖
となり、私は朝霞キャンプPXに職場を変え、彼女は王子TO
Dに同じ仕事を続けることになった。

熊本から両親が東京に移住することとなって、大家の敷地
にある「愛子さん」の家を買い、又上の姉の夫の教員組合の
分譲地を70坪を買い、バラックのような家を新築して、一緒
に住むことになった。路江が結婚以来貯めた20万円をその
家敷地のために投資したことを記憶している。

昭和31年、長女セツ子、32年に次女あつ子が生まれた。
そして駐留軍も徐々に引き揚げ、私設返還と共に仕事も変え
なければならなかった。
私は、自動車大型運転免許証を持っていた関係上、二世の
経営する米車輸入販売「メトロポリタン エージェンシーズ」に
営業マンとして入社したがかの有名な小佐野賢治の「国際興
行㈱」田町営業所の社員となった。
だが営業成績が良くなければ、収入も少なく、従って会社の
仕事以外の、外車販売も個人的に手を出してしまった。
新車を買って貰う為に下取りを40万円と決め、下取車を50万
円で神田の顧客に売ることの契約を交わし、登録を済ませて、
代金と引き換えに客の待つところに行き、いざ代金を請求した
所、金が無いのでこの家の権利書を代金の替りに用意したと
言う。家の権利書など分からないから約束通りの残金40万円
を頂きたいと言ったが屈強な男4,5人でもう登録を済ましてあ
るからこれで決済してくれと言う。泣き泣き権利書を受け取っ
て直ちに権利書の正当性を確かめに登記所のある横須賀に
行き確かめた。確かに50坪の土地と50年以上経った古家は
あったとりあえず、下取り代金の40万円を支払い、その古屋
を売って借りた40万円を返さなくてはと女房と子供二人を連
れて横須賀に転居した。その家の前に海上自衛隊のトップ
の方が住まわれていて大変お世話になったことは終生忘れ
得ない。国を守る最高の地位になられる方は流石に普通の
人とは違うと思った。


土地ブームが来たとき、お金さえ持っていればあの家は売ら
ずに持っていれば50万円では無く、数千万円に綯っただろう
にと女房と二人で嘆いたものだ。

そのように度々外車販売で失敗を繰り返したので、英語百科
事典の販売会社に変わることにした。
オールコミッションの会社だが販売が無かったら無給と言う危
険な仕事だったから女房には月給20万円と言って安心させ
万事うまく販売が出来たので普通のサラリーマンより多く生活
費を妻に上げることが出来たのは綱渡りの仕事だったからだ
ろうと今思えば冷や汗である。

この仕事も約8年ほど維持できた。それからは職業が容易で
はなかったが、昭和53年東大泉の70坪の土地に両親と同居
してすむ家を新築することになったので板橋の公団住宅を2,
500万円で売り、500万円を資金に貿易を始めることにした。

この頃は三人の娘達は二人は大学を終え、三女が大学生生
でアルバイトに夢中であった。
雑貨輸入販売卸業の仕事は初めて5年間は金の回りが大変
であったが5年を過ぎる頃から業績は安定してきた。がしかし
毎日高速道路を利用して遠くまで納品に明け暮れであった。

20年の経験は業績の発展と信用を生み、家内を連れて海外
旅行にも行ける身分になった。カナダ、フランス、英国、北欧、
東欧の他オーストラリヤ、ニュージランド、イタリヤ、ドイツの
他中国東北部、北朝鮮には同総会で2度第二の故郷、新義
州、定州に行った。

韓国、旧満州には10数回も仕事を兼ねて行き少年時代の友
人にも会って来た。

三女が自分で見つけた相手と結婚して、その相手が是非貿
易仕事をしたいと言うので後継者育成の意味で営業をする
ことになったので家の近くに土地を買い、倉庫の上階に自分
達で家を建てなさいと、二階の三分の二と三階に三女夫婦
の住まいを、一階と二階の三分の一を倉庫と事務所と新築
したのが平成8年であった。
このときの土地代金には妻路江は4,000万円の資金を拠
出してくれた。

平成14年、妻路江は自転車で踏み切りを渡る際、小さな子供
がよちよちと前に出てきてそれを避けるために横転して左脚の
複雑骨折で大手術と」なり入院2ヶ月後普通に歩けなくなった
以来平成15,6年は度々の入院、ひいては軽い脳梗塞で救
急車で運ばれて入院したこともある。心筋梗塞も併発、散々で
あった・平成16年三女が離婚し、会社を閉鎖することになった
倉をリホームし、東大泉の家は8戸のシングルアパートメン
トにした。リホームした家に4年妻は脳出血で倒れ、入院後
58日目に冥土へ旅発った。78歳と4ヶ月であった。

新宿のマンションの一室は毎月家賃を全部妻に渡してきたが
全て貯金していた。常に小さな小売商売をしたいと願っていた
が、適えられずに、しかしこの半年ほどは世界旅行も出来たし
温泉旅行にも行けたし私は幸せよと何度も言っていたことが
心に残る。

平成20年6月、近くの浄土真宗のお寺に両親の墓を改装し娘
達や孫達が何時でも行き易い様に埋葬してある。
三月二十九日には妻路江の一周忌をお寺で家族、妻の兄、
姉、妹、弟嫁達が集まって(14名)法要を営んだ。

妻路江の弟(浩二)が亡くなって、5ヶ月後、引きがねとなった
と思う











妻(路江)享年78歳4ヶ月を

人生八十年

平成21年3月29日で満八十一歳の誕生日を迎えた。
80年と言えば長くもあり短くもあった。省みれば我が
人生81年は後悔することばかりで、何をやっても中途
半端な人生であった。

1928年日本が統治していた朝鮮西北部で生まれて
小学校に入るまでの幼児期は何も記憶していないが、
我が家は真面目な父親の小さな商店を経営する事に
よって、祖父、母、姉二人と兄の家族構成であった。

両親は小さな町で京城日報、朝日新聞、毎日新聞の
支局及び販売店を営み、兄弟姉妹の4人を育てていた
働き者で、町の日本人会では信用のある人物であった
同時に朝鮮人の教育程度の高い人たちとも交際があり
戦後も引き続き交際が続いていた。

さて、私は6歳で日本人子弟教育の小学校を6年間、
中学校は商業学校に行っていた兄と同じ下宿で2年間
中学校4年生を終了すると共に、海軍甲種飛行予科練
習生として鹿児島航空隊に入隊、一年半後日本の敗戦
で、親戚のいる熊本市で家族の朝鮮からの引き揚げを
待っていた。

昭和21年10月家族の両親と下の姉、結婚して赤子の
いた姉夫婦が帰国した。
両親と姉の4人で、熊本市の健軍と言うところにバラック
の家を求め、やがて私は東京に姉を頼って出て来た。

上の姉夫婦は義兄が小学校の教員で、都営住宅に住
んで子供は二人になっていた。
私は手っ取り早く、生活が出来る駐留軍の第五空軍に
職を得て、同じ駐留軍の職場を転々とした。
銀座「松屋デパート跡」のJCE(米軍PX)で勤務、家内
の路江と気脈が遇い、共に生活することになったのは、
昭和28年4月であった。

貧しいながらも、二人で将来を設計し、目標に向かって
お互いに切磋琢磨し共働きながら一生懸命に働き貯金
を心がけたものだ。だが基本の技術が無い私は色々と
働く会社を定めることが難しかった。
昭和29年両親が熊本より子供三人がいる東京に生活
の場所を変えて、練馬東大泉に土地70坪とバラック的
な家を新築して一緒に住むことになった。

昭和31年、32年、35年と三人の娘が産まれ、36年に
板橋区の中台の東京都住宅公社の住宅に5人で住む。
仕事はアメリカの百科事典「アメリカーナ30」の訪問販売
の会社に勤め、成績が良かったので、仙台支社に配属
され、次いで二年後、大阪、東京本社と転勤、昭和44年
新宿大久保のマンションを購入、保証人は専務の楠本氏
に頼んだ。昭和47年高島平公団住宅に積立分譲に当選
ここに4年住み、昭和534年、両親の住む、東大泉の家を
新築立替え、両親、と我が家族5人の7人が住むことにな
った。

私も50歳になり個人事業を目指して、訳も分からずに貿易
したいと思い、オーストリアからスキースーベニアの輸入を
試み、はて?何処に卸せば良いのか迷ったが、高速道路
のサービスエリアに見本を持って駆け回った。
関越自動車道の「上里エリア」の売店責任者から電話が入
り納品するようにと声がかかった。他、東名道路、東北道路
など各サービス、パーキングエリアを回って少しづつ取引納
品が出来るようになって来た。初めの一年間は一ヶ月30万
円ほどの売り上げしかなかったが、徐々に売り上げが増え、
年間の売り上げが1000万円を超えるようになったのは3年
後であったやがて年間6,000万円を超える頃には家内も共
働きを止めて手伝うようになって、彼女の意見は大変貴重
であった。

この仕事を始めて東北の蓮田で夏の忙しい時に日航機事故
が発生、消費税が3%になりシールを付けるのが大変だった
それが数年後5%に上がり徹夜でシールの付け替えをやった
平成16年、娘婿の手伝いで750万円の詐欺に引っかかって
、しかも道路公団の方針が変わって殆どの業者が業務を続け
られなくなり、わが社も数十社の取引先の要請もあって会社
を閉鎖することにした。三女の娘には家庭崩壊をさせて悲し
ませたのでその労苦に生活を支えたいと思っている。

仕事を辞めて4年、倉庫を改良して終の棲家となった家内の
霊に残り人生を供養に明け暮れたいと思っている。








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