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一周忌法要

家内が先立って早くも一年の月日が経った。去年の2月
24日(日)朝孫娘の中学校制服を新調に付き合おうと
言っていたが、寝室の掃除を始めて、ベッドメイクが大変
なので、下で休んでいたらと私自身でシーツをしていたら
階段の塵を掃きだし、一番下のところで座り込んでいた。
急いで家内のそばに行くと、手を上に上げ、「手摺が無い
」と小さな声でぼそぼそと口ごもっていた。
様子が可笑しいと気が付き、彼女の頭を抱えるとそのまま
横たわって目を閉じだした。抱えると重く感じ、前にもこの
ような「脳梗塞」で倒れたことがあったので、静かに寝かせ
て電話のところへ行き、「119番」に通報した。

まもなく救急車が家の前に止まり、隊員が声をかけながら
救急車に収容、電話で救急病院に連絡していたが、2,3
の病院にかけていたが、田無のS病院に行くことになりま
すと言うので「T脳外科」はどうですかと聞くとあそこは受け
られないと言っていますとのことだった。
サイレンを鳴らし私も同乗し、何か一時間位も時間が経った
ような思いであった。

病院に着くとそのまま「CR」に入れられた。暫く待っていると
担当の医者が私と長女、次女、三女を呼び、脳の中全般に
出血が酷く、真っ白になっていますから、とても回復は無理
でしょうと告げられた。仮に命が助かっても植物人間です。
それから応急手当の緊急ベッドがある集中治療室に約2週
間ほどの後、入院室のベッドに変えられて、完全看護の状
態に入ってしまった。毎日午後一時頃から電車、バスを乗
り換え一時間かかる距離の病院と家の間を通った。

もう意識の無い家内に毎日声をかけ、諦めの気持ちで58日
間の末、4月21日午前3時23分静かに息を引き取り、当直
の医者から、「臨終です」と告げられたときは涙が出て悲しい
気持ちで一杯になった。

午前中に遺体を家に運び、一階の畳の部屋に北枕で寝かせ
て、娘達が葬儀会社に連絡の電話をいれ葬式準備にかかっ
たが、何をどうすれば良いか無意夢中であった。

お通夜は24日夕方6時、告別式は翌25日午前11時、練馬
H.T会館と決まった。

24日午後遺体を会館に葬儀社が運び、午後6時からお通夜
に入り、葬儀社の社員の誘導で参席者が多数来られ静かな
式が出来た.
家内の兄弟、兄弟、娘達家族、中学時代の先輩も二人参席
され感謝で一杯だった。娘の勤め先の方々も多数焼香に出
席され静かに通夜は終了。

25日午前11時から告別式にも多くの出席舎を迎え、谷原の
「S寺」の住職にお経をお願いし、中野の葬儀場で荼毘の弔い
を完了、遺骨を家に安置した。

昭和28年4月5日、結婚の入籍届けを確か北区区役所にて
55年間の共に苦労し二人で生活を設計し、共に泣き、共に
喜び、三人の娘達を大学に進学させ、家庭を持たせて、孫も
5人と増えた。良きパートナーであった。
しかし先立たれて見ると、あれもこれもと後悔が残る。この2、
3年は高齢による身体が一層不自由となったことは残念だ。
常に車で行動を共にし、死ぬ前年は「沖縄旅行」を簡保旅行
で行ったことは本人も満足であった。加えて町内会長野旅行
スーパーの山梨ぶどう狩りなど温泉周りも楽しかった。

なんといっても、平成6年から12年にかけての世界旅行は
20数度に及び、その都度、出発が決まると、家内は嬉しさ
で興奮冷めやらぬと言う状態に陥った。英会話の出来ること
が外国旅行を一層楽しくさせたものだと思う。
昭和52年にはアメリカ東部旅行(ニューヨーク、マイアミなど)
それから十年ほど家業が忙しくなり、次に旅行を始めたのは
平成6年一月であった。先ずはカナダ(トロント、ナイヤガラ、
ケベックと帰りは天候の都合でアラスカ周り)となった。次いで
韓国、中国(天安門事件の頃)夫々7,8回は旅行した。
ヨーロッパは家内の大好きな旅行であった(スイス、ベルギー
英国、フランス2回、ドイツ2回、チェコ、ハンガリー、オーストリ
アなどは旧制中学校時代の級友夫妻2組、ニュージランド、
タイ、オーストラリヤ、航空路は何時も成田空港からロシヤ
領土上空を12時間くらいかけて飛行していた。飛行機の窓
からロシヤ地上を見ているのもすごく楽しかった。

九十九里浜から成田空港に着陸は常に興奮するものだ

最後の海外旅行は南ドイツでライン川の流れを叔母さん団体
が一斉に「ローレライ」を歌っていたのが印象的であった。皆
さんはきっと女学生に戻った気分だったろうと思う。ノイシュバ
ンシュタイン城もロマンを覚えさせる観光地だった。

家内を楽しませてあげられたのは一緒に世界旅行をしたこと
と思う。世界一周クルーズを企画したが家内はあまり興味を
持たなかったので機会を逸してしまった。残念であった!

この日の出席者は
長女家族4人、次女、三女家族3人、亡妻の姉、兄、と長女、
妹、弟の嫁、計14名であった。次女の義父より5,000-







添い
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春のお彼岸

お墓参りには家内の実家の墓のある駒込に行ってきた。
家内の生前は秋、春の彼岸の日にはこの寺にある墓に
家内の兄弟が集まることになっていた。しかし今年は家内
と家内の弟と兄嫁の三人が欠けた。

家内の兄弟は家内の姉、兄、妹、弟と五人兄弟姉妹だが
一昨年11月に弟、12月に兄嫁、明けて去年の4月に家内
と続いた。

何時もは弟夫婦を中心に姉、兄夫婦、家内と私に妹夫婦の
9人が集まって墓参りが例年の決まりとなっていたが、皆が
高齢に綯ってくるに従って人数が減るのは仕方ないことだ。

家内も一番年下の弟が死にがっかりしたことは間違いない
次いで兄嫁が風呂の中で事故死したことも予想外であった
加えて半年後家内が実の母親と同じ「脳出血」に倒れ意識
が戻ることも無く息を引きとったのは入院58日目だった。

悲しみは続くもので、三人が今年のお彼岸に姿が無かった

そして一週間後の29日は家内の一周忌法要を菩提寺で
営む。出席者は三人の娘達の家族、家内の姉、兄、妹と
弟の嫁、総勢16人で法要に参席することになっている。



子猫(アメリカンショートヘアー)

次女の家には捨て猫をかわいそうだと言って飼っている。
勤め先の同僚が「アメリカンショートヘヤー」メスの子猫を
貰ってくれないかと言ってきているので、要らないか?と
電話があった。かねがね三女と同じ家の上下に住んでる
ので、孫娘(小、中学生)の情操教育に良いかなと思って
いた際だったので、孫達に世話を必ず見ると言う約束で
貰うことにした。

生後6ッ月の全身真っ黒な子猫からもうすぐ大人になりそう
な子猫だが、貰って来た初めはおどどおどとして懐かない
臆病な猫だったが一週間もすると、何時も暗いベッドの下に
隠れていた猫がどうやら餌や糞の始末をしている内に慣れ
てきて、餌を強請るようなり、一ヶ月も経つと一階から三階
まで走り回るようになって来た。まだ一階の私のいまには
恐る恐るそっとのぞきに来るが、子供達の三階のヘヤには
行くようになった。二階の私のベッドルームにトイレと餌場が
あるので、夜はベッドの枕の横に自分の寝場所を決めたよう
だ。

朝は主人が起きると同時に起きて付いて来る。そして先ず
子供達の寝ている顔を眺めて起きるのをじっと待っている。
やはり子供達の友達なんだと妙に納得。子供達が抱いても
為すがままだが主人の私が抱くともがき逃げ出す。

子供猫なので良くじゃれるようで可愛い。

又三女の友達から3月3日にアメショーの赤ちゃん猫が生ま
れたので要らないかと言ってきたので4月半ば過ぎに貰う
ことにした。今度はオス猫だそうだ。

5年前に茅ヶ崎の外孫が猫を貰ってくる人が居ないかと言っ
て来た時、千葉にいる旧制中学時代の同期の友達に言って
貰ってくれた友達に電話したら、子猫が生まれたらもう一匹
欲しいと返事が来た。いま居る大猫の妹にすのだと言ってい
た。それほど猫が好きだと思っていなかった。
子供の時から付き合っているのにこんなに猫好きとは思って
いなかった。
人は死ぬまで分からないものだ。動物好きな人には悪者は
いないと昔からいわれている。

アメリカン ショート ヘアーと言う種類の猫は機敏で性格が
良い猫である。
「血統書」を見ると、曽祖父と祖母が「グランドチャンピオン」
の格式高い猫ちゃんであることがわかって嬉しい。

子猫を生んだら希望の人にわけて上げたい!

花粉症

毎年のことながら「花粉症」に悩ませられる時期が来た
と言っても今年は2月初旬頃からその気配があったが、
花粉症対策として近所の耳鼻科病院に行って薬を数種
10日分貰って帰るのが毎年の習慣になっている。

先ずは、目が痒くなるのが花粉症にかかったかなと言う
サインだ。同時に鼻がつまり、息が苦しくなる。何時もの
ことで直ぐ病院へと言うパターンだが、考えてみると若い
時はそういうことに無頓着かあるいはアレルギーは無か
ったのかも知れない。この花粉症の苦しさは60歳半ば
頃からと思う。
もともと鼻炎の傾向がある体質だったが、長じて苦痛が
伴うようになってきた。

最近は薬も効能が効き、かかったかなと思えば一時は
薬屋へ飛び込んでいたが、健康保険が利く医者に行く
ことにした。

1回行くと保険料負担が三割で、凡そ2,000-前後
払うことになる。

70歳を過ぎてからは、風邪にかかり易くなり、加えて
「前立腺肥大症」で手術も済ませた。風邪の場合は、
いろいろな症状が出て、いちがいに決まらないが、大体
気管支炎になることが多い。
一病息災、全く健康な人よりも、あちこち悪いところが、
出るほうが用心深くなるものだ。頭の悪いのは仕方ない
としても、加齢と共に、足腰も痛むようになった。
「脊椎管狭窄症」は整形外科病院に行って投薬で半年
かかってようやく痛みは無くなった。
でも、就寝中両脚が引き攣る「こむら返し」には往生して
いる。誰か治す術を知らないだろうか?

持病は一生付き合って生きながらえなければと思って
いる今日、この頃である。でもあと余命は少ない。

南無阿弥陀仏!合掌!

北朝鮮の拉致問題

北朝鮮は朝鮮戦争後、国内では戦争にはアメリカと戦って
勝利したと人民に言い含めている。これは「金日成」が国内
を統一する為にはどうしても専制を敷かなければならないか
らだ。戦争前は南朝鮮(韓国)よりも国力は有ったが、中国
の援護が無ければ、自由社会国の韓国を武力侵入した北
朝鮮を追い戻すためにアメリカの近代武力の前には中国軍
の援助で停戦に漕ぎ付けた金日成は何とか勝った形を国民
に示さねばならなかった。

世界情勢は西欧十主義的国家対ロシヤ、中国の代理戦争と
なった訳である。ロシヤはアメリカに対抗出来る大国であった
し、中国は社会主義を掲げていたがまだ国力は人口の多さ
以外には後進刻であった。だから国連軍が鴨緑江近くまで
侵攻した時は、林彪率いる中国軍に一時は釜山近郊まで
追い詰められた米韓軍はマッカサーの作戦で再び劣勢に押
し戻されたのである。

それは1950年頃であった。板門点に休戦会議場が設けら
れ延々と交渉は続いている。

韓国はアメリカ、日本の経済援助で次第に富裕国家となり
アジヤでは日本に次ぐ先進国に進歩した。これに引き換え
北朝鮮は金王国として産業は進まず金日成の権力のみを
考え、加えて金日成の息子「金正日」を後継者にした。
この頃から、北朝鮮は韓国を目の敵にし、日米を仮想敵国
と見て、あらゆる妨害にこの馬鹿息子はアボジ「金日成」の
権威を利し、多くの国家犯罪に走ったのである。

日本人ばかりで無く、韓国人を初め日本、タイ、ベトナムや
色々な国々の男女を拉致してきたのである。
日本人の場合、朝鮮総連の非合法的な駆け引きに惑わさ
れて日本政府は手も足も出なかった時代もあった。
日本人拉致問題は早くから有ったが、日本の警察は共産党
や社会党の政治家達に遠慮して捜査が遅れたのである。

又韓国でも日本人以上の人々が拉致されたが、日本人の
場合と違って、彼らは同じ人種の国で生活習慣や同一言葉
故に日本人ほどにその考え方は違っている。
又拉致された者も、日本人と韓国人とでは、精神的な負担も
違ってくる。


朝鮮の日本人居留者

朝鮮は日清、日露戦争後の明治40年(1900年)頃から
日本人居留者が入植して来たらしい。
まずは朝鮮総督府が出来て寺内元帥が総督となった。
以来総督は陸軍将官が殆どである。台湾は海軍将官の
違いだろう。

日本人の職業も色々で、総督府を初め、13道の知事、
府(市)、郡、邑、洞、里などの行政区分に分かれるが、
府は府伊(フイン)、郡は郡守と言う。
昭和15年頃は、道に知事、府伊、郡守などの長に朝鮮
の人が何人かいたようだ。
朝鮮人の級友に国会の貴族院議員を父親に持つ人もいた

日本人は行政の役所、学校教員、警察官、鉄道員、研究
機関職員などと並んで多くの朝鮮人も同等に採用されて
いたようだ。
日本からは初めは軍隊に付随して各土地に商売を始める
人たちも多く、平安北道では、新義州、定州、江界、宣川
亀城、泰川、鴨緑江流域の国境都市などに分散居留して
いたが、大方朝鮮人9に対し1あるかどうかの人数だ

日清、日露戦争の後、どちらかと言うと、日露戦争後には
戦役で、陸軍部隊にいた兵士が、そのまま日本に帰らず
所属の部隊が駐屯した地点で、警察が置かれる前、警察
の職務を例えば憲兵隊の下士官が長となって、その地区
の治安のため残ったと言う人もいたようである。
警察はあ朝鮮人、日本人商人などの治安や統治に役務
を尽した。だが大正9年(1922)例の朝鮮独立運動3.1
騒乱が起こり、定州も例外では無かった。
丁度折りしも、父は定州に腰を落着かせるべく、印刷業を
開業するために熊本の印刷屋に修行に半年程帰り、また
妻(母)を」娶る用意にこの運動の起った際には不在だった

小学校は朝鮮人子弟の教育の普通学校、日本人小学校
が開設されたが、朝鮮人普通学校の生徒収容には学校数
が足りなかったので後、2,3校増設されたのは昭和15年
の頃であった。

定州駅の平壌寄りの駅が古邑と言って、昔からの朝鮮人が
開いた「五山学校」と言う朝鮮人の間では有名な中等学校
があった。朝鮮民族は日本人以上に子供教育は熱心だ。
そして先生(ソンセン二ム)に対する敬愛の念は日本人所
では無い。これは儒教の教えから来た支那系の文化である

北東アジア民族(支那、朝鮮、日本)は所謂、箸文化民族
として、南方民族から見ると教育的レベルが高いとされる。




朝鮮人の友達

小学校は日本人ばかりの全校生徒220人、一学年で男女
35名前後、教員も校長を含めて7人であった。
尋常科6年と高等科は複式学級で数人の朝鮮人の生徒が
いたような記憶がある。朝鮮人の生徒は2,3歳年上の者が
いて既に結婚している者もいたようであった。

中学校は一学年、55名の内、一割の5名が朝鮮人であった
これは各学年も同じ定数だった。
朝鮮人学生は日本人学生と違って、入学試験は採用数が
5名で応募者は十数倍だから難関を突破して入学して来た
者ばかりであったにで全員成績が良かったような気がする。

その内の一人は乞う江界出身の医者の息子だった。名前は
日本名を「高村治平」と称した。超鮮名は「金○○」(北朝鮮
に残留したので名前は明かせない)
噂によれば北朝鮮海軍の司令官になっていたそうだが真実
は判らない。入学試験以来の知り合いで4年生の時、私が
海軍甲種飛行予科練習生に応募したとき俺も一緒に行きた
といっていたことを思い出している。だから朝鮮の海軍に入っ
たのではないかと推察している。だがもう80歳以上の高齢
だから生死不明である。(当時、日本海軍は朝鮮人の採用
はしていなかった。)

彼は顔も言葉も朝鮮人離れしていて日本人かと思った位だ
渾名は「金太郎」
そして朝鮮人特有の頭の天頂に十銭玉のような禿跡も無か
った。察するところ彼の父親も日本の医学を学んだ医だった
ので恐らく日本人インテリ同様の生活をしていたに違いない


もう一人の同級の仲良し学友あh「劉元国」と言って、終戦後
ロシヤ軍が新義州に駐屯した時、反対運動の学生リーダー
をやっていて、朝鮮共産党の銃撃を受けて死亡した。人の良
さを感じる誠実な学生であった(彼の二年下級の実弟の話)

更にもう一人の朝鮮人の学友は、新義州府の大金持ちの四
男であったが、旧水源農林専門学校(ソウル大学農業科)に
進学したが、あまりにも家が屋ンバンであった為に北朝鮮か
ら追出されてソウル市で高等学校の教師になっていた。19
90年再会度々来日するようになって昭和天皇崩御の時は
宮城記帳に参内した。父親は戦前の日本貴族院議員だった
そして彼の4人の兄弟は皆んな母親が違っていた。
この話は直ぐ上の兄(4年上、京城帝国大学英語課在学中
終戦、GHQに勤務後、アメリカ籍を取得、CAIに勤務)から聞
いたのである。

一年下級の「李○○」は中学三年生の時、少年戦車学校に入
学終戦後韓国に戻り、韓国士官学校に入学(第8期)アメリカ
にも留学して朝鮮戦争で戦車隊小隊長として部下を率いてい
たが、敵の銃弾が頭を掠り名誉の戦傷者となり、陸軍大領(
大佐)の時定年で将官に昇進、日本で同総会が或るたびに
出席している。父親は九州大学法学科出身で統治時代、
平安北道の検事であった。

去年の同窓会は東京で開催され、女学校の会員であると言う
韓国の女性が参加していたが、自己紹介で(私は定州の加納
が丘国民学校から新義州の女学校に進学した)とのことで、
不思議に思い、彼女から詳しく経緯を聞きに彼女の籍に行き
聞いてみたら父親が定州の税務署の署長をしていたとのこと
今まで知らなかったが、朝鮮の人で税務署長になられた人の
話は初耳であった。私より二年下級の女子生徒の名前を記憶
していたので間違いないと思ったそう言う人も世の中にはいる
ものだ。その後ソウルから手紙、電話が来て懐かしげであった



昔の朝鮮1

結局朝鮮に住んでいた期間は昭和3年から19年までだから
丸16年間となる。
用事の頃は殆ど無いが戦後母親から聞いた話では、子守に
来る朝鮮の幼い少女がよく赤ん坊の貴方をおんぶして、自分
の家に連れて行っていたけれど、帰ってきた時に必ずしらみ
が体中にいて困ったよ!と言っていた。朝鮮のヤンバンの家
は別にしても、軒並みが低く大抵の家の軒には首に荒縄で
括った赤犬が吊ってある光景を見たものである、猫の死骸も
あった。ある日何時も可愛がっていた旅館の飼い犬が低い軒
にぶら下がっていたのを見て泣いて家に帰ったことがある。

朝鮮では赤犬と言って食用狗肉が一般的であった。日本人
の家庭では食用にはしないが朝鮮料理や行くと甘肉は上等
料理だと聞いていた。これは中国でも同じ習慣がある。
日本人の家庭には馴染みが無いが、子供の寝小便を治すに
はこれが良く効くそうである。支那の国でも同じことを言ってる

代表的な朝鮮の料理はなんと言っても「キムチ」である。これも
結構種類が多い、オイキムチ、カクテキキムチ、ムルキムチな
ど数え切れない。朝鮮の秋(10月)は早い、オマニ(アジュマ)
達が数人で白菜、大根に独特の唐辛子、アミ、ニンニク、ねぎ
等を混ぜた物を挟み、朝鮮甕に塩も加えて混ぜ入れ、その甕
を地中に埋めて藁の蓋をして取り出せるようにして埋めて置く
10日もすると美味しい漬物のキムチが食べられる。一甕ある
と親子4,5人が一冬の間、ガチガチに凍った漬物を金槌で叩
き割って取り出すのだ。酒のつまみ、ご飯のおかずに向く


焼肉料理は朝鮮料理屋で食するが、回虫やさなだ虫が腸に
発生して大人の人が困っていた。
ビビンバは我が家では殆ど見たことがなかった。ちちじは市で
良くアジュマが焼く道具の上で焼いて売っていたのを買い食
いした事を覚えている。
朝鮮飴は縄を綯うようにして作るが、こねるとき手の平に唾を
つけるので見たら食べられない。朝鮮の餅は粘りが少なくア
ズキ餡が薄くて甘味が少ない。やはり美味しいのは支那料理
であった。

日本ではあの味は味わえない。今ではもっと美味な世界中の
料理が毎日食べられるのだから、昔の味を求めても感傷に過
ぎない。






旧制中学生時代

昭和15年(1940)晴れて、新義州公立中学校に入学
定州の町から見ると、新義州府は平安北道の道庁所在
地だけあって大都会であった。まあ京城や平壌から見る
と市電も無いし、小さくはあったけれども、私にとっては、
希望の中学校生活が始まる、大きな町に感じた。
幸い、5年上の兄が先に下宿生活をしていたので、寂しく
は無かったけれども、最初の一年間はホームシックになり
土曜日が来ると汽車で定州の我が家へ帰ったものである
それは、大叔母からお小使いを足してもらう為でもあった。

夏休みは8月1日から20日までであったが、白馬と言う
田舎の道路整備に勤労作業が一週間ほどあり、休みに
入る前であったので、20日間の夏休みは短かった記憶
がある。
夏休みは、二年上の鉄道機関士になった先輩に機関車
で平壌や安東県まで乗せて貰ったものだ。
往復6時貰間~8時間かかるので朝早くでても暗くなって、
帰宅、煤だらけになって帰ってきた顔を見て母が「どこに
行って来たの?」と訝しげであった。トンネルに入ると顔が
煤だらけになる、安東までは110㌔、平壌までは120㌔で
あったが坂あり橋を超え、トンネルは両方とも10前後近く
あったような気がした。坂を上るときは釜に石炭をくべても
中々力が出ない。速度が落ちるので歩いても追い着く速度
である。戦後は良くこの情景を夢に見た。
まさか、この夢を実現できるとは思わなかったが、平成4年
夢が実現した。

中学に入学した冬、同級のTと日曜日、安東県に遊びに
行こうと鴨緑江河畔桟橋から出る支那人の漕ぐ「橇」に
のり一人10銭を払うのだが、Tは帰りは俺が払うから行き
はお前が払えと言うことで、先に20銭を払った。安東では
「ビクトリヤ」ロシヤレストランでピロシキを注文して食べた
思いがある。鎮江山の展望台など見て帰りも「橇」に乗り
Tが払う約束だが、二人分10銭しか払わない。訳を聴く
と帰りは追い風だから漕ぐ力も半分なので、料金も半分
だと言う。以来誰かと乗るときは帰りを払うことにすると
思ったが、昭和17年頃から鴨緑江の水面は全く凍らな
くなったのだ。

ある日同期のNと支那料理を食べに支那料理屋に入って
食べている最中に、N教師ひ見つかった。翌日母親が呼び
出されて「停学一週間」と罰を言いつけられたのだ。
安東には行ってはならない、映画館にも父兄同伴で無いと
行くことはならぬと言う校則があって、現在の教育では考え
られない罰則があった。

二年生の昭和16年二学期に寄宿舎「請和寮」が学校裏手
に出来て入寮した。寮長は5年生の「山上さん」だった。
舎監は教員の田中、泉、戒能、別所さんたちが交代で宿直
されていたような記憶が残っている。
12月8日朝の朝礼で泉先生が今朝帝國陸海軍の部隊が
真珠湾、マレー沖で戦闘に入って多大な戦果を揚げた。
と訓示があった。
18年の二学期、中学から幼年学校、海軍甲種飛行予科練
習生になられた岸、望月両先輩の「俺に続け!」の講和が
講堂で全校生徒に話された。

昭和19年4年生の時、海軍甲種飛行予科練習生の募集が
ありクラスの半数以上が応募した。試験は南の「鎮海海軍
基地で行われ、新義州から三浪津乗換えで24時間位費し
確か基地に一泊したような思いではある。帰途は三浪津で
駅前の朝鮮そばやで温麺を食べたが冷麺よりも旨くない。
定州の冷麺は発祥の地と言われるくらいで、牛の畜産では
最高であるために全鮮市であった。キムチと言い、牛肉と言
い、日本内地から来て食べた人は最高と賞賛していた。
定州には総督府の農事試験場、畜産試験場があって、職員
が研究していた所為もある。

昭和19年、中学4年生終了で「海軍甲種飛行予科練習生に
合格の通知が届き、4月1日、鹿児島県垂水航空隊に入隊の
ため定州を出発、母親は東京の兄の下宿にある荷物の整理
のため下関まで同行した。鹿児島は桜の満開であった。
櫻島は鹿児島市から見ると偉く大きく見えたものだ。





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