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朝鮮時代(1928~’40)そのⅡ

我が町「定州邑」は定州郡の郡庁所在地で、郡の長は「郡守」
と呼ぶ。定州郡は昔から真鍮の生産地だったそうだが、あまり
目にしたことは無いが商業と農業の町で、毎月10のつく日に
町の広場で「市」がたつ。郡内の邑、洞、里などの田舎から、
農産物、畜産物、いろいろな産物を市で売買する為いろんな
人々が持ち寄って商いする。
又広場では、朝鮮相撲(シルム)、シーソー、ブランコなどの
競技が催され賞金、などが主催者から与えられるが、一等賞
は牛一頭、二等賞には豚とか鶏まで獲得出来るため盛大な
祭りとなっていた。

冬の一月、二月は最低気温が零下30℃近くまで下がる朝鮮
の西北部では、便所の大の方が氷り積もり重なって、夜暗い
所でしゃがむと尻が冷やっとすることがあって情けなくなる気
分です
二重窓の桟の間には粉雪が夜中に20cmも積ることもありま
す学校への道は降る雪が積もり固まってスケートで滑って行
くことが楽しみでした。


夏の日の夕暮れは8時過ぎまで明るく家を忘れて学校の運動
場でドッジボールなどの遊びに時の経つのを気が付かなかっ
たものです。
朝鮮の夏は短く、冬休みは40日間もありました。夏休みは20
日間、桜の花は天長節(4月29日)が満開で、その日は良く
りんご園で花見をしに行った覚えがあります。

私が生まれた昭和3年にこの定州の町に初めて電気が灯った
のだそうです。そして、昭和15年頃に町の水道管が敷設され
折角の汲み上げ井戸の水を使わなくなりました。
井戸の水はこの酷寒の地でも、夏は冷たく、冬は温かい温度
を保って山からの地下水はとても美味しいものでした。

今、考えると定州の風水は自然がいっぱいで健康に良かった
と思います。しかし現在の北朝鮮にあるこの地はどうなってい
るでしょうか?平成7年4月29日に定州市(市に昇格)を通過
した際に見た市街は昔の面影が薄く、鉄道の給水等、南山、
などは、残っており駅は新しい建物になっていて、「定州青年
駅」となっていました。

当時は定州の町は、人口が約一万人位で内日本人は千二百
人、朝鮮人は約8,500人位で支那人が100人もいなかった
と思います。外国人は宣教師らしき者2,3人だったでしょうか
チャーチもありました。支那人は野菜を栽培して商っていたよ
うですが、「東江楼」支那料理屋には5人いました。

日露戦争の初戦の戦跡地で、加納忠男騎兵中尉の忠魂碑
が丘の上にあって石碑にはその戦役状態が記してありました
駅から町にはかなりの距離があって鉄道官舎の中を透りぬけ
て我が家に帰ったたものです。官舎の住人は街中に住む人と
は距離があって独特の生活形態をしていたようでした。

警察、小学校の職員は朝鮮人先生も大勢おりましたが主導権
は日本人の先生方がもっていたようです。しかし郡守、税務署
の署長にも朝鮮の方も日本人と同待遇で折られたようです。

父の朝鮮人の友達は東京の大学の出身で奥様もソウルの梨
花女子専門学校出身で日本語も堪能でした。戦後はソウル特
別市に南越されて父をソウルの自宅に招聘していましたし、
この夫妻を東京でお世話していました。

戦後、朝鮮各地では、今までの鬱憤を晴らすように、朝鮮人の
立場は日本人と逆転、そこへ共産党やロシヤ軍が進駐して規
制が厳しくなり日本人の家屋、財産は没収されたりして、労役
に狩り出され散々な思いをしながら帰国を夢見てきたのです。
着の身着のまま、38度線まで徒歩で、船を買い団体で北朝
鮮を逃げるようにして帰国した日本人は60万人ほどいたそう
です中には黄海で嵐に会い船が沈没して例もあります。


続き
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朝鮮時代(1928から1940)

道庁通り(突き当りが旧道庁庁舎)
1928年と言えば昭和3年、世界大恐慌が翌年の昭和
4年であったから、その頃生まれた私はその時の状況は
全く知らない。
物心がついて、記憶に残っていることは、5,6才頃から
の断片的なことだけだ。

祖父は無学で(父の話)誇大妄想者だったらしい。私が
小学校一年生の頃は裏の離れ部屋に一人でいたが、
母が食事を運んでいたことは覚えている。
古希とか喜寿とかと言っていたから70歳なかばだった
らしい。良く父からお金をせびって九州の別府温泉場に
行っていた。その祖父の妹も同じ町にいて、明治の終り
頃熊本から三人の仲間達と日露戦争の軍隊の後に付き
あとから来る商人や官吏を相手に旅館業を経営していた。

その大叔母は私の祖母(祖父の妻)が早くに亡くなってい
たのと、子供がいなかったので、私たち兄弟を可愛がって
くれた。連れ合いに先立たれて、甥である、父の助けを借
りて、その旅館を支那料理屋に変えて、当時支那国から
支那人の王さんを始め5人ほどの若者と一緒に支那料理
屋を営業していた。
お陰で私は小さい時から支那料理ばかり食べて大きくなっ
た。
支那そばは勿論、八宝菜、鯛の丸揚げ、焼き、水餃子など
ワンタンに至るまで支那人と生活を共にした位だ。
支配人の王さんは日本人の女性を嫁にしていた。それは
満州でお金を稼ぎ損なって本国の日本に帰るとき朝鮮に
入れば日本に帰ってきたような気持ちになるそうだ。
しかしそこからはまだ日本の土地までは汽車と連絡線に
乗り継がなければならない。かなりの女性が着物や持物
を売ってお金をくめんするが芸者になる者も多い。
昔の写真を見ると大叔母の「長崎屋」旅館にはそのような
日本の着物を着た若い女性が写っている。

朝鮮の西北部の町は日露戦争後、多くの日本人コロニー
が都市を開発してきていて、小さな日本人社会を作った。
僅か日本の統治は36年間に過ぎないが、鉄道、道路、
電気、学校、病院、植林、農業、水利、などのインフラは
朝鮮の発展に貢献している。

我が定州の町でも日本人人口は、1,200人位で、学校
は朝鮮人の為の普通学校は三校ほどに増えた。日本人
の小学校は全校生徒220人ほどの小さな小学校が一校
中等学校進学は、平壌、新義州、あるいは満州の学校へ
進んだものだ。

又私が生まれて住んでいた町「定州」は京義線、平壌と
新義州の丁度真ん中の地点にあり、朝鮮鉄道の機関区
があった。釜山から北京、満州里までの特急列車も停車
して機関車を交換又は燃料(石炭)水の補給をする所だ。
どんな特急でも5分から15分は停車す。普通列車なんか
は30分以上も停車している重要な駅であった。

鉄道官舎があり、7,80世帯に独身寮が3棟あった。
日本人の官公署には多くの朝鮮人職員もいたが、収入は
日本人の半分位と聞いていた。日本人は日本内地から来
るのに「薪手当て」「寒冷地手当て」と言うものが貰えて日
本での給料の倍近くももらえたらしい。
家族を養って行く朝鮮人よりも独身の日本人若者の方が
収入が多いのだ。しかもレベルの低い日本人は朝鮮人に
対して傲慢であったのだ。戦後は主客転倒、今までの上
の地位にいた日本人は反対に殴られ追いだされて泣いた

小学校卒業して中等学校に進学して行く者が約半分位と
高等小学校(二年間)に行くものとが半数に分かれていた
高等小学校を出たら、男子は鉄道員、女子は家事手伝い
又は電話交換手と田舎と言う所為もあろうが教育しない家
庭が多かった。個人や家庭の考えにもよるが、朝鮮に行っ
て一発当てようと言うひとも多かったのではなかろうか?

我が家の隣家は「権医院」と言う朝鮮の人の町の病院で、
「魯病院」の両方の医者に診てもらったこともある。
両先生とも日本語は達者で信頼の置ける医者であった。
近くに「朴文圭」さんと言う「ヤンバンサラミ」がいて、邸宅
の庭に飛べない鶴が二羽飼っていた。大叔母が当時お
金を出資して毎月¥20-の利息を貰っていたようだった。

私の小学校卒業は昭和15年3月、第31回生で逆算する
と第一回生は明治38年である。日露戦争の勝利した年で
あるが、もうその時代には日本人コロニー達は朝鮮の果て
まで進出していたのだ。
次回に続く・・・

1992年新義州中学校同窓会で新義州市訪問旅行を催した








ファックス&携帯電話

ファクシミリと携帯電話
昭和60年初期、トヨペットの販売店でMarkⅡの新車
を購入した。雑貨輸入卸しの仕事を始めて5,6年も
経った頃だったと思うが、業績も安定して来たので、
念願の同車乗用バンをローンで買ったのが嬉しくて
携帯電話が積載できると言う話になり、仕事中でも
留守している家内との連絡が取れることを夢見ては
楽しかった。しかしその携帯電話と言うものは現在の
携帯電話から見ると、途轍もなく大きな器械で電話機
そのものは肩に架けて、電話機を片手で持ち操作する
代物であった。今考えると良く使ったものだと感慨深い

そして数年後頃、ファクシミリ電話機なるものが電信電
話会社から紹介があった。早速電話機に取り付け毎日
使用できることを楽しみにしていたが、どこの取引先も
まだ設置していなかった。仕入れ会社の雑貨卸業者が
何軒か取引に利用していたに過ぎなかった。
当時NTTからの契約支払いは毎月¥30,000-づつ
60ヶ月の合計ー1,800,000-であった。
5年が過ぎ、更に5年の契約延長をした覚えがある。

考えてみれば総合計1,800,000-である。
現在は電気量販店に行けば、いろんな機能が付いても
約¥100,000-位である。商売上止むを得なかった
こともあるが、電気器具、通信器具などの器械の進歩
は昭和初期生まれの人間には目を見張るばかりである

そこえパソコンを使って「インターネット」が一般化しても
十数年になろう。私も平成10年頃からみようみまねで
使っているが、通信、ホームページ、ブログ、印刷などの
便利さは計り知れない。

又この年齢だkらボケの防止にもなろうかとも喜んで使う
ことにしている。

これからの世の中は、おそらく携帯電話万能時代になって
いくのだろうと思っている。情報社会の時代だから・・
少ない年金生活の毎日はパソコンを使って、メール通信の
出来る旧制中学校時代の何人かの同期生と通信を楽しみ
グーグルアースを利用して世界を衛星から見て楽しんでい
るが、後何年喜ばしてくれるかなあ!

中国旅行

1988年(昭和63年)4月20日~5月5日
中国(元満州国)の都市で鴨緑江河畔にあり北朝鮮の対岸
の新義州の旧制中学校の出身であり住んでいたこともある
関係上何とか行って見たいと思っていたところ丹東訪問を
安東会が企画しているとのことで、参加させて貰った。

成田から北京へ夜行列車で丹東市へ、丹東市近郊五龍背
温泉は戦前いたことがあるので、見覚えもあって列車が丹
東市に近づくに連れ興奮の極に達した。
鎮江山の展望台からはあの懐かしい新義州の町が望見出
来る。だが元王子製紙工場跡の煙突からは煙も出ていない
夜は真っ暗な街で対処敵に丹東市は赤々としている。

歓迎パーテイで「対外友好公司主任」と乾杯(カンペー)の友
となる。彼の息子の日本留学の保証人を頼まれた。

中国旅行はこの後、審陽、撫順、飛行機で上海、蘇州と訪れ
上海では2日間帰国の便が遅れた。

上海港口の揚子江、までのクルーズで仲良しになった日本語
の達者な青年の日本留学の時の仕事の世話をする事になった

世話した中国人青年二人は、現在中国で重要な仕事をしてる
世話甲斐があったものだ。
その後は10数回の中国旅行を経験hした。

韓国旅行

戦後は日本の国情も経済的事情が悪かったが昭和25年、
(イ945)朝鮮戦争の特需景気で飛躍的に生活が良くなり
焼け跡のバラックも段々と整理されて行ったようだった。
それでも海外旅行は高値の花で、当時は映画で見るハワイ
やアメリカの社会が夢のように目に写ったものだった。

始めて戦後の韓国に行くようになったのは、戦前の朝鮮の
中学校同総会を「ソウル」で開催することになったからだ。
北朝鮮から韓国に越南した韓国人同級生は一人いた。
先輩や後輩も同総会名簿には何人かいた。
丁度その時は韓国から雑貨を輸入していたこともあって、
韓国の友人に会いたいと思い日韓同総会に出席することに
した。

ソウルの宿舎は新羅ホテルであった。会場は勧告の政財界
の主要な人々が利用すると言う郊外の有名なキーセン料亭
にやく0人ほどが集まった。
韓国の有名小説家、陸軍予備役大将、など韓国の同窓生は
皆日本語が達者である。韓国に来ても言葉には不自由しない

仕事があるので滞在二日で家に戻ったが、後日はそれに慣れ
個人で行ったり、業者を同行したりで10数回渡韓したものだ。

当時はまだ勧告の製品は物足りないものであったが、後輩の
元戦車予備役少将が実に良く面倒を見てくれたので感謝する

彼が来日したときには、十分世話したものである。
そあひて日本での同総会には必ず来日の上出席している。

ソウル以外の都市にはあまり縁が薄かったのでこれから他の
都市にも行って見たい。又行く予定である。

ロマンチック街道南ドイツ観光

平成12年11月10~15日
成田~香港周りフランクフルトへ
二日目 朝5:25着、~リューデスハイムへ、
 ライン川クルーズ、日本からの叔母さん団体は
 船の中「ローレライ」合唱、
 ハイデルベルグへ、同市内観光、ハイデルベルグ城
三日目 ヴュルッベルグ、市内観光後ニュルンベルグ
      ミュンヘンへ
四日目 ローマンチック街道「ノイシュバンシュタイン城」
     アウグスブルグ、ネルトリンゲン~ローテンブルグ
五日目 ローテンブルグ~フランクフルト空港へ
     香港乗継
六日目 成田13:55着

ヨーロッパへは南周りより、北周りが良い、以後注意汁
同行M夫妻も疲れたらしい、
     

第二回北朝鮮訪問(新義州)

平成7年4月20日~5月2日まで14日間(二週間)
ピョンヤン~シニジュ間は陸路(平義街道)
陸路は普通外国人は利用できない。(住民の生活を
  見せないため)
ピョンヤン~クムガンサン、(ウオンサン)には往復
2日間も泊まる。この街道は全面舗装だが穴凹だらけ
ピョンヤン~板門店休戦会議場までは一級舗装だが
通行は少ない、元山は下記↓
http://www.dia.janis.or.jp/~nasimoto/genzan/genzan.htm

4・20日 成田、福岡組上海合流後、中国北方航空で丹東へ
 ・21日 丹東市市内観光、鴨緑江周遊船、鎮江山公園
 ・22日 12:00鴨緑江鉄橋を中国国際旅行社のバスで
        新義州市に入国、新義州駅~平壌へ
 ・23日 ピョンヤン市内観光、万景台、清流館、他
 ・24日 板門店休戦会議場、開城市、マスゲーム観覧
 ・25日 ピョンヤン空港より北京hr、三名は元山市へ
 ・26日 元山市、東名ホテル宿泊
 ・27日 金剛山、九龍の滝、海金剛
 ・28日 元山市、青少年の訓練センター、東名稜
 ・29日 ピョンヤン市~定州~新義州へ
 ・30日 ピョンヤン市の高層住宅内の家庭宅へ
 5.1日 ピョンヤン市内観光、
  ・2日 ピョンヤン空港~北京~成田へ
定州には新義州の帰り予定が遅くなって素通り、
新義州市ないに入るには、三僑川の橋入口で検問後、入市
鴨緑江ホテルで担当者に会い、王子製紙工場跡地を回って
旧本町通り、旧道庁前から税関通りを走り、平安神社苗通り
を旧道立病院前で引き返す。後ろから私服保安員が4人車で
尾行して来て、我が方の運転手と口論となる。
ピョンヤンの手前、安州辺りでタイヤのパンク、24:00高麗
ホテルで夜食、狗肉焼肉で夜中に同室二人腹痛大当たり!

仔細はホームページに






魅惑の東欧8日間

ウイーン~ブダペスト~ウイーン~ザルツブルグ~ウイーン
  ~プラハ~ウイーン~成田
平成11年11月29日~12月6日 8日間
中学校の同期生夫妻と4人で旅行

第一日目 成田11:30~16:15ウイーン
          バスにてブダペスト21:00着
第二日目 ブダペスト市内観光 漁夫の砦、王宮、大聖堂
第三日目 バスでウイーンへ、シェーンブルン宮殿、王宮
          シュテフアン寺院、ベルヴェデーレ宮殿
第四日目 ザルツブルグとカングマート観光、教会、
          モーツアルト生誕家、
第五日目 ウイーン~プラハ、プラハ城、旧市街、
第六日目 ボヘミアの古城、ビアホール夕食、メルニック城
第七日目 ウイーンへ、17:30ウイーン発
第八日目 成田着09:15、 蒙古上空、朝鮮半島、日本海
          富士山~、初めての空路コース 
東欧の国は素晴らしい、ハンガリーでは東洋系の民族も、
ザルツブルグでは元日本人ダンサーのガイド、国境三度超え

オーストリア、ハンガリー、チェコの東欧三国旅行

英国、ベルギー6日間(阪急交通)

平成9年11月14日~19日
英国、ベルギー6日間の旅
第一日目 成田12;50発~チューリッヒ~ブリュッセル
第二日目 ベルギー市内観光、小便小僧、グランプラス
       ブルージュ観光
第三日目 ユーロスターでロンドン市内観光、パッキンカム
       宮殿、大英博物館、
第四日目 市内観光、ウインザー城
第五日目 ロンドン発チューりッヒ乗継
才六日目 成田へ16;55着
ユーロスター内ビュッフェで熱湯を貰いインスタントラーメン
を食べる。
ブルージュの森では大雨でずぶ濡れ、国際連合ビルでは
アジアの国の中では日の丸の旗のみ翻っていた。
ロンドンのデパートで回転すし店があったが食べる気なし。
チューリッヒで時間持て余し、待ち時間にレストラン食事が
とチュウリッヒ工科大学見学。
成田まで12時間、来るときは13時間、気流で一時間速い

ヨーロッパは今回で4度目、ロシヤ上空の夜明けが楽しい

オーストラリヤ旅行

平成9年(1997)5月24日~29日
    旧制中学同級生夫妻と
オーストラリヤ観光旅行5泊6日

第一日目(24) 成田発19:20
第二日目(25) ブリスベーン着04:35市内観光
          ゴールドコーストへ(バス)市内観光
第三日目(26) ゴールドコースト発11:10
第四日目(27) シドニー着 12:35 市内観光
第五日目(28) シドニー終日観光
第六日目829) シドニー発09:00~成田着17:40

カンガルー、コアラ、などの他大陸に無いものの珍動物
が珍しい。北半球と反対気候

北欧旅行

平成8年3月24日~31日
北欧旅行(スエーデン、フインランド、パリ)
24日 成田発10:55~ヘルシンキ~
     ストックホルム14:20着 市内観光
25日 ストックホルム市内観光後バルト海クルーズ
26日 ヘルシンキ着 09:00 市内観光
27日 タンペーレ観光
28日 ヘルシンキ発06:00~パリ着10:20
29日 パリ市内観光 ムーランルージュディナー
30日 パリ発11:35~ヘルシンキ~
31日 成田着08:55

何時ものことながら、ロシヤ、シベリヤ上空を12時間
かけて飛行する。
フィンランドではサンタクロースに会う会、バルト海の
クルーズは3月末だが氷を破っての船の突先で朝食
パリは2度目の観光モンマルトル~モンパルナス歩く


北朝鮮旅行(同窓会)とニュウジランド旅行(家内)

6月に家内と娘夫婦のニュージランド旅行(6月)
と中学校同窓会北朝鮮旅行と(9月)
タイ観光旅行(家内と近所の友達)10月

北朝鮮新義州訪問旅行(北朝鮮は50年ぶり

第一回 義中会 訪朝団 1992 9月7日~13日
                  旅行会社 中外旅行社
参加人員 40名 団長  7期     門脇 椿峨 
           副団長13期     岸 恒雄
           参加人員    総勢   40名
                      添乗員 2名
日程
第一日目 9月 7日 成田発14:55~18:15北京着 
第二日目    8日 北京市内観光 16:48北京駅発
第三日目    9日 丹東市着08:07遊覧船、鎮江山
第四日目   10日 新義州 12:08発15:51平壌着
第五日目   11日 平壌市内観光、万景台、主塔他
第六日目   12日 09:00空路北京、万里の長城他
第七日目   13日 08:50北京空港発、成田13:50

新義州市内は旧本町通り~守備隊前~黄金町~駅へ

旧統治時代の平安北道道庁、府庁、税関、守備隊など
の他日本人住宅など幾多の建物が残っていた。
駅は爆撃で新しい駅舎が少し南よりに4階建てで建って
いた。王子製糸工場も煙突からは煙なし。

 

カナダ(ナイヤガラ&ケベック)

平成7年3月14日~19日カナダ旅行(旧中学校同級生
の2組夫婦動向)
成田~トロント~ナイヤガラ~ケベック~トロント~アラス
カ周りで成田

14日 JTBツアー成田発16:15~トロント着~ナイヤガラ
15日 ナイヤガラ観光 ショッピング トロント~ケベック市
16日 ケベック観光、シャトー フロントナック泊
17日 ケベック~モントりオール乗り継ぎトロント泊
18日 トロント発~アラスカ経由
19日成田着13:30

この年は神戸地震とサリン事件で大騒ぎの社会相

イタリア(ポンペイ、ナポリ、フイレンツェ)

平成6年(1994)11月25日~12月1日 イタリヤ旅行
               ジャスベル(イオン)旅行会社
 11月25日 成田発09:30 大韓航空KE-705
             ソウル経由~チューリッヒ~ローマ
         ローマ着 21:50      ローマ泊
 11月26日 市内観光、サンピエトロ寺院、コロッセオ
         トレビの泉、OPカンツォーネディナー
 11月27日 ナポリ、ポンペイ一日ツアー
           ポンペイ遺跡は強い印象が残った。
 11月28日 フィレンツェ1泊2日 
 11月29日 フイレンツェ市内観光、ドウモゥ
 11月30日 ローマ発 チューリッヒ、ソウル経由
 12月1日  成田着13;30
ソウル空港内の公衆電話で友人の家に電話(無料)
大韓航空は客のマナーレベルが低い。

イタリヤ縦断高速道路の売店では酒類を販売している。
これは驚き、通行マナーは昼でもライト点灯、マナー良し

同年輩のイタリヤ人が次の大戦はドイツ抜きだと勝利と
言う、こちらが日本人と知ってか、リップサービス(^。^)


  

花のパリー

平成6年(1994)1月26日より4泊6日の日程で
「パリー観光」に女房と行くことにした。
生まれて初めてのヨーロッパ旅行である。
暮ごろから心はもうセーヌの空のしたでうきうきして
落ち着かなかった。
フランスやハリウッドの映画で見る、パリーは美しく
ロマンで憧れの外国である。それが、昔と違って、
エコノミーではあるが、その気になれば簡単に行く
ことが出来る日本の、日本人の経済力なのだ。

ベルギーの国際連合連盟の本部の建物のメイン
ゲートには米、英、仏、伊、独、露、加の欧米の
旗の中に日の丸の旗が翩翻と翻っているではな
いか。又いろいろの国のホテルにも各国の旗の
中に必ず日の丸の旗はある。円は何処の国でも
通貨として喜ばれる。日本人としてこんなに嬉しい
ことはない。

パリでの日程
1/26 成田発 12:50 エア フランス航空
    パリ着 17:35 コンコルドラファイエット泊
1/27 市内観光 ルーブル美術館、エッフエル塔
    凱旋門、ノートルダム寺院、コンコルド広場
    シャンゼリーぜ通り、セーヌ川遊覧
1/28 ヴェルサイユ宮殿
1/29 オルセー美術館、のみの市、オペラ座、
    モンマルトル、ムーランルージュ、
1/30 市内観光後、パリ発15:00
1/31 成田着10:55 エアフランス航空

ショッピングは高島屋、三越パリ支店で
のみの市では名物のすりに遭う。
モンマルトルの丘では色んな国のパフォーマンスが
集まっている。市内眺望も良し。








海外旅行

あくせく働いて来たが、学歴コンプレックスで、これと
言う確実な仕事をとうとう50歳過ぎても得ることは
出来なかった。
昭和55年、念願の貿易実務を独立で立ち上げて見た
ものの、もともとその経験もノウハウも素人で貧しさは
益々どん底になっていったが始めた輸入品が高速道路
の売店で扱ってくれると契約が取れた。それから次々と
高速道路のサ^ビスエーリヤやパーキングエリヤからも
輸入した商品を月極めで納入出来ることになって、肩上
りに営業額が上がっ行った。昭和63年には台湾、韓国
中国からも輸入が始まり、主に雑貨であったが韓国に
仕入れに行けるようになった。もともと、朝鮮で生れ育っ
た関係でソウルには中学時代のクラスメート、下級にいた
予備役軍人も喜んで商社を世話してくれたので助かった

ソウルには都合20回ほど商用で、次いで、中国遼寧省
は丹東市(新義州の対岸)には昔、我が家で働いていた
中国人(77歳)がいることが判り、残留孤児の家族との
保証人関係で、北京経由で行くことにした。
更に旧安東会の旅行会にも参加して、丹東市友好公司
に顔を知られて、新義州旅行のバックアップを頼んだ次第
となった。
丹東市には亡妻も一度連れて行き、鴨緑江周遊船で対岸
の新義州岸近くまで寄せたものだ。

それから次第に北朝鮮に渡航する手立てを準備、北朝鮮
系の旅行会社の手続きで「新義州訪問旅行」を1992年
9月、中学校同窓会の有志30名を連れて実行に移した。

当時はまだ北朝鮮に入国できることは考えられなかったが
朝鮮観光総局、朝鮮国際旅行社、挑戦国際航空などの幹
部の人も我が家を訪ねてきた。
平成7年(1995年)再度40名の有志と北朝鮮旅行を試み
た時は、一行から分かれて、更に一週間日程を延ばし元山
金剛山、新義州と陸路、朝鮮国際旅行社の提供する車(い
すずバン)で駆け回った。

平成4年以来、家内の希望でまずは、「フランス」4泊5日の
旅行会に加わり楽しんできたが、ヨーロッパの旅に中毒して
平成8年まで多いときは年3回の海外旅行を何時も二人で
思い出を作ったものである。

カナダはナイヤガラ、ドイツではライン川周遊、中東3カ国も
良い思い出となった。その点、北欧(スエーデン、フインラン
ド、パリ)の旅は、ロンドン旅行とあまり楽しくは無かった。

平成7年のカナダ(ナイヤガラ、ケベック)の時は1$79円
の通貨価値で何でも安く感じた旅行であった。このときは
旧友夫妻二組と8人での旅行となりこんなに楽しい旅行
は二度と無かった。

亡き家内とは、国内旅行も大いに楽しみ、北海道、仙台
伊勢神宮、小豆島、長野、能登半島、九州一週、沖縄
大阪、京都、他殆どが60歳台の元気な頃だった。

平成19年は伊豆の温泉で従兄弟会を開催、
今年は京都西本願寺に行く予定である。


東京での生活

戦後の日本は、敗戦から立ち直った30年代であると思う。
しかし私は同年代の人々から遅蒔きだったので、一つ違い
の嫁さんはさぞ苦労したと昨年先に旅立った女房には感謝
してもしきれない気持ちでいる。

三人の娘たちには、家内と共に大学教育を受けさてたが、
50歳代までの働きがあまり良くなかったので悪かったなぁ
と恥入っている。

昭和30年に進駐軍の仕事も、大方無くなって、日本の
民間や官公署などのほうが安定した職業になりつつあって
次第に世の中が朝鮮戦争以来景気もよくなって来た。
大型自動車免許証も取得して、自動車の営業が身に合う
と思い国際興業㈱田町営業所の所属で営業をすることに
なった。
この自動車販売はアメリカのクライスラー系のクライスラー
(高級車)、などと、英国の「ヒルマン」小型車などの販売
代理店なので、夢中で客探しやアフターサービスに心掛け
たものだ。ダッジ、プリムスなどのクライスラー社の外国車
は配給制でタクシー、ハイヤー会社が割り当てで買うことが
出来た。月賦(ローン)で買うことが出来ますと言うとびっくり
まだ当時はローン制度が始まったばかりだった。

クライスラー6,000ccの高級車が外国人に一年に一台が
買える制度があって、ある台湾人が新車を売りにもってきた
それを、ある光学会社の社長宅に夜遅く売り込みに行った
ことがある。「君は熱心だから買おう」と翌日会社の計理部
に行き現金で買ってもらうことに決まった。現金800万円は
当時としたら莫大な金額であった。現金払いなのでもう一台
の車が護衛で付き添ってくれたことを機能のように思い出す

ある日望遠鏡製作会社の車買い替えで、下取りをした車を
売れた時にお金を持ってきても良いよとのことで、下取りの
車を神田の会社に現金で売買することを約束し、名義を変
えて納車に行ったところ、現金が無いからと土地不動産の
権利書を渡された。それは横須賀の50坪の権利書であっ
た約束が違うでは無いかと詰め寄ったら、何人かのグルー
プは逃げるようにいなくなった。詐欺にあったと警視庁に駆
け込んだ、だが警視庁では詐欺にあたらないと言われ、泣
く泣くその権利書の土地を現金化しなくてはならないので、
家族(家内と二人の幼子)をつれて、空き家にしていると
家屋が廃れるので、転住することにして、近所に買ってくれ
と触れ回った。米屋さんが50万円で買ってくれることにな
った。
考えて見れば、お金があれば、値がよくなった時に売れば
良いものを、早く現金を信頼してくれた委託してくれた会社
に返金しなくてはならないので、売り急いだのだった。

当時50坪当たり一万円の50万円だったが、今では5000
万円以上になるだろう。商売はお金がお金を呼ぶのだと言う
ことが身に沁みたが若かったのでそれからが苦労の連続。

たびたびのセールスで騙されに、営業する物を変えて見よう
と思い、次はアメリカの百科事典30巻のセット販売に身を投
じた。

それは昭和38年のことであった。私の家族も家内に三人の
幼い女の子たちで、東京都住宅供給公社の一室に住んでい
た頃であった。
英語の百科事典の販売ならば、当然、大学や、高等学校の
図書館に売り込みに行けばいいのだと思い、地図を見ながら
東京の学校に売り込みに歩いた。しかし直ぐには返事を貰え
ない。殆どが色好い返事で、何週間も売れなかったが、或る
日思いもかけずある高等学校から納品の手続きに来いと電話
があった。続いて東大の英語科の図書室からも購入希望の
電話が続いた。しかしそれ以上は続かなかった。我々の支部
長は毎日数セットの契約を取ってくる。疑問があったので、付
いて行くことにしたら、大学病院に入って行った。医者に売っ
ていたのだ。医者と同格の職業の人に見せて回れば良いの
だと気が付いた。それから毎日あらゆる会社の研究室を回る
ことにした。

功を奏して、成績が抜群、支部長と共に東北、北海道の支部
に配属となった。家族を連れて地方のテリトリーに変わる事と
なった子供たちの小学校も転校させ住宅公団にも入居出来た






上京(昭和25年4月)

あまり記憶していないが、昭和25年3月下旬、熊本駅
から普通列車に乗車して(急行料金を節約)新橋駅で
降り、大森の姉の家庭に行き、そのまま飯田橋の職業
安定所に職を探しに行った。英会話が出来ると言うこと
で、米軍第五空軍の月島基地の食糧倉庫の事務員の
仕事を得て、しばらく身をおくことにした。日本人従業員
は2,30人くらいであった。米軍要員は同じく30人位で
あったが、入れ替わり立ち入りするシビリアンのゲストの
ような人が多く出入りしていた。月島の中学校校舎の跡
らしい建物であった。一年も経たずにこの基地は閉鎖と
なり、改めて他の部署を探さなければならなかった。

次の仕事先が「松屋」跡のポストエクスチェンジ(PX)で
あった。8階のデパートの中は、一階、二階は物品売場
3階はコンセクション(民営の契約会社)の売店、4階は
婦人用品売り場、5階はポストオフィス、6階はソーダラ
ンチョネット(軽食堂)7階はPX事務所、従業員休憩所、
地下には米軍関係のレストランがあった。

一般には知られていない地下は地下鉄線路、その下
には壕のような地下室が10階ほどの深さに建設されて
いたようだった。確か地下3,4階の所まで行ったと思う

やがてこの松屋のPXも閉鎖となって、埼玉県の朝霞の
キャンプ内にある「PX」に移ることになった。
そしてまもなく今度は大和田レシーバーステーション内
の「PX」に移動することになり、東大泉の家から、本田の
220cc のバイクで通勤した。

昭和28年5月6日「井木路江」と結婚し31年に長女、せ
つ子、32年に次女(あつ子)、35年に三女(むつ子)が
生まれた。

米軍勤務では、月島、松屋、大和田とその都度、日本政
府から退職金を貰えた。
流石に日本政府は戦後経済が立ち直って、駐留軍は少し
づつ縮小して行った。
昭和30年、アメリカ二世の経営する自動車販売会社、「
メトロポリタン、エージェンシーズ」に営業社員として入社
これも一年で「国際興行㈱」(小佐野賢治社主に買収さ
れて同社社員となった。



熊本時代

昭和20年(1945)8月15日、終戦、朝鮮にいる
家族が、日本に引き揚げてくる時に連絡が取れる
熊本の親戚に二ヶ月ほど、お世話になり、玉名郡
の長洲町の製塩会社に働くことになった。当時は
食料の無い頃であったが、特に塩は米一升に対し
倍の価値の五合であったと思う。その塩を親戚の
家にお土産に持って行く大変喜ばれた。

その内に、この製塩会社の経営者の大風呂敷が
判るにつれて、より大きな会社に働きたいと思うよ
うになり、宮崎にある、旭化学のレーヨン工場に、
職を変えたのは半年位経ってからだった。
レーヨン部のある課長が、佐伯に新会社を創設sる
が、来ないかとの誘いがあったが、おりしも朝鮮か
ら家族が引き揚げて来たので、家族ととの生活で
新しい目的を築くため、丁重にお断りした。

熊本市の生活では、父親が大学進学を強く希望し
ていたので、私立の英語専門学校に入学すること
になった。製塩会社の同僚、Aを誘い、共に入学。

アルバイトをしなければ学費も稼げない状態の毎日
の生活であった。


昭和25年、思い切って東京の大学に行きたいと、
決心し、結婚して東京にいる姉を頼り、上京をしたの
が、4月だった。姉の家にも厄介になれず、英会話の
勉強が出来る米第五空軍の月島キャンプで働きなが
ら、六大学のどれかに入学出来たらと思ったが、生活
に追われと言うよりも生活費に窮して進学の希望は断
たれたと勝手に考えたのだ。

結局、熊本には落ち着かない生活ばかりが思い出され
あまり強い印象は残っていない。昭和20年8月~一時
六ヶ月ほど延岡に居を移したが、昭和25年の3月には
上京で4年半ほどの短い期間だけであった。




終戦の頃

終戦の想い出は、夏の暑い日だった。前より8月15日
正午から、天皇の重大発表があるからと言われていた
ので、隊長宿舎の前でラジオ放送を聞くが天皇の声だ
と言うことはわかるが、良く聞き取れなかった。
「忍び難きを偲び・・・」と言う言葉を聴き、何か駄目だっ
たのだなあと感じはしたが、軍医が「戦争は負け、日本
はアメリカに無条件降伏したのですよ」と隊長に解説し
ていた。しかし容易に隊長は納得できなかったようだ。

それから一週間、毎日することも無く、夜は宴会三昧で
汗臭い兵舎にのんびりと次に来る命令をまっていたよう
な思いが残っている。真夏の暑い日が続いていた。

8月25日頃だったと思うが、指揮官から、訓令があり、
当分隊は解散するので、復員手当てを支給するとの、
話であった。確か20円位の手当てと、食料、衣服など
の支給があり、復員するための故郷に帰る列車搭乗金
は無料と言うことであった。

航空魚雷整備

昭和19年4月~20年8月まで、海軍航空隊の甲種予科
練習生として、航空機操縦では無く、航空魚雷の整備を
習得させられた。鹿児島県は桜島から少し南の方に行った
ところに、古江の町外れにその航空隊はあった。海岸沿い
の斜面にあったような気がする。戦後一度探しに行って見
たが跡形も無く、場所さえ確認が出来なかった。

桜島の付け根の所に海潟と言う温泉部落がある。そこに
整備した航空魚雷の発射試験場があった。そこには行って
いないので今はどうなっているか知らないが思い出のある
懐かしい所である。

整備を終えた試験用の航空魚雷を、この発射練習所に専用
のいすずの貨物車で、試験場まで運び、発射台に取り付け
教官の号令と共に発射装置の栓を抜く、180気圧の圧搾
空気がジャイロスコープを回転させ、酸素燃料の燃焼室を
発動させる緊張の一瞬だ。中にはほかの班では発火失敗も
見かける。又魚雷が発射進行しても、中途で沈没する場合も
あるのだ。標的の前方にある小島に命中すれば拍手喝采だ。

戦時中、航空魚雷は艦上攻撃機や一式陸上攻撃機などで
敵艦船を攻撃するのだが、艦上爆撃機などは「天山」「彗星」
などの小さな攻撃機に積載するため、800キロの重さの物
だから一発しか積めない。
そもそも航空魚雷と言うものは、敵艦船の手前で水中に落し
て、魚雷自信がぺラを回して進み、命中させるのが目的なの
で性能上いろいろ工夫がある。戦後アメリカの武器研究班が
日本の武器で一番技術が優れたものとして賞賛したそうだ。

航空魚雷の整備をするために、魚雷の構造を取得しなければ
ならないが、教科書は特秘なので自由に持ち歩くことは出来
なかった。置き忘れたり、紛失したりすれば総員で探す。
その夜は精神注入棒(バッター)を全員頂戴する。

全長4m29cm、弾頭を入れると、5mを越す。弾頭には500
kの火薬が詰まっている。
攻撃機から投下する場合は、角度が水平に近ければ水面で
折れることが多い。パイロットの技能の問題で、要は水中に
入ってからは約5,000m位走るので、整備が悪ければ途中
で沈んでしまうのだ。

走行は酸素エンジンだと泡を殆ど出さないので、それを採用
していたようだ。確か180kの圧搾空気タンクの弁を開いては
ジャイロスコープで舵、水平舵、ローリング、ピッチングなどを
コントロール出来る。震度も機内から調節できた。敵の艦船が
戦艦、航空母艦のような大型であれば、深度を10メートル位
にするが駆逐艦、巡洋艦くらいであれば5,6メートルと投下す
る前にパイロットは深度調整をして発射するのだ。

モーターで圧搾空気を魚雷の前部部分半分のタンクに詰め込
む。後部にはジャイロスコープ、推進燃焼エンジンが設計され
ている。頭部は500キロの火薬が、訓練のときは火薬は除か
て空の弾頭となる。しばしば軽いので頭部から浮き上ることも
あった。

香取基地しか知らなかったが、特攻隊基地には必ず航空魚雷
の整備分隊が基地の近くに整備工場とともにいたはずである。
香取基地は第一線の特攻基地であった。
鹿屋基地には体験搭乗で一度行ったが、一式陸攻撃機のよう
な大型の航空機が多数駐機されていた。渡洋爆撃機基地だ。




海軍飛行予科練習生、香取基地

昭和19年11月下旬、甲種飛行予科練習生の航空魚雷
整備普通科コースを終了後、20名づつ近くが、全国の基
地に配属命令され、我々も同人数の同期生が香取基地
に移動することになった。
鹿児島から長距離、山陽線、東海道線で東京に至り、両
国で乗り換え香取基地は、旭と言う駅の前だった。
あまり記憶していないが、基地から一駅離れた飯岡駅に
行き、航空魚雷の整備分隊が約200名ほど木造の兵舎
で居住し、航空魚雷の整備は海岸から離れた台地の下に
大きなトンネルのような豪が掘られた中に整備工場、格納
庫があって、本基地の第一線機、「天山」「彗星」などに積
載すべく、魚雷積載専用荷台の貨物自動車で搬送するよ
うになっていた。自動車は運転士と共に十数台あったよう
な気がした。

居住兵舎も格納豪にも電線は引かれて、不便は無かった
ように思った。主に古参の整備兵が24時間整備していた
整備を終わった航空魚雷は、専用の貨物自動車に両側
に積まれ、雷撃機に装備されて飛び立つ。特攻隊基地で
あったのだ。第131航空隊、第631航空隊と記憶する。

隊長は「赤星大尉」で叩き上げの将校だった。軍医中尉
と他に2,3人の将校がいたように思った。

3月10日の東京空襲はこの土地からも東京の空が真っ赤
に見え、翌日は東京出身の兵士に自宅に帰って安否を見
て来いと十数人が帰京して無事だったと言う人も何人かい
たと思った。8月15日午後12時、玉音放送を隊員全員で
聴いた。隊長は軍医の解説で敗戦を理解できたようであっ
た。
それからは魚雷の整備も無く、夜になると、古参兵の宴会が
毎夜はじまって一週間後分隊の解散が決められて、復員手
当て、海軍常備品などの支給があった。
隊長は貨物自動車を持ち帰り、運送業をやるので、希望者は
着いて来いと言っていたが何人が付いて行ったのか不明だ。

さあ、これから朝鮮にいる家族のところに帰ることは無理かも
しれないと、先ずは、無料乗車の出来る復員列車に乗車して
九州は熊本の親戚を尋ねようと思った。広島駅から見える市
内は市内電車は屋根が無く、焼け野原となって、多少の家が
残っていた。正しく「新型爆弾投下」である。列車は朝鮮人の
帰国のための特別列車となった。
これからが終戦後の苦労の始まりであった。

海軍甲種飛行予科練習生第14期

垂水海軍航空隊は飛行場が無い航空隊で、確か昭和19年
4月から甲種飛行予科練習生が2,3個分隊入隊してきたよ
うに思う。
一個分隊は約400人で甲、乙の分隊に分かれていた。中学
同期のD,S,Nの3名が同時入隊した。戦後聞いたがもう一人
義中一年生に入学が一緒で転校したUが同じ分隊にいたそう
だ。

学科教育、航空魚雷整備教育、体操、水泳、信号、手旗など
の教育は一生懸命についていったものだ。
水泳は鹿児島湾の桜島一週遠泳では2mを超える越前くらげ
が目の前に来て驚いたものだが、そのうちに慣れてきてくらげ
の上に乗ることを考えた。しかしくらげは乗ってみると沈んで
しまうので、頼りにならなかった。大きいくらげは刺さないと言
うことが分かった。

海軍の訓練は厳しいことも、楽しいことも、連隊責任の体罰
でも連帯性が問われる。巡検後の総員整列は殆ど毎日総員
バッターを食らう。それも後日省みれば楽しい思いが残る。

朝鮮の定州から私の班長達宛にりんごや朝鮮のタバコが箱
で送られてきた。それ以後、カッターではオールを握ったこと
が無い。何時も特別に舵を取るだけだった。お蔭で尻や手の
ひらをすりむけることはなかた。
一万mのマラソンは上位10位内に入った。耐久力があった。

垂水の町に半農半漁のおばさんを母が知り合ってそこに下宿
していた将校宿舎の経理をやっている兵長がいて、或る日分
隊にいた私を訪ねて来た。下宿のおばさんから聞いて来たと
言う。それ以来、将校宿舎食堂に行っては将校の食事を頂く
ことが出来るようになった。一膳飯から開放され、同時入隊の
D,S,Nを同行しては銀飯や一級のおかずを食べさせてくれる事
に慣れきった。

半年後19年12月4名の中学同級の予科練生は普通j科を終
えて、千葉の航空隊に転属すことになった。他の3人と別れ、
(館山、木更津)私は香取基地に転属することになった。

次は香取基地

新義州公立中学校時代

昭和15年(1940)4月8日、新義州公立中学校の入学式
に確か母と中学校の門をくぐった記憶がある。あれから来年
は70年が経つ。

一年生の制服は兄のお古を着て行った。制帽は新品を誂え
た。下宿は兄(商業)の下宿に一緒の部屋に入ることにした。
警察官の「山口さん」の家の一間であった。

一年生の担任は東京高等師範学校出身の若い熱血先生で
国語、漢文の教師だった。

二年生の二学期、中学校の寄宿舎が校舎の裏手に新築され
約30人ほどの生徒が入寮して、同部屋は四年生の大石さん
が室長であった。寮長は5年生の山上さん、賄いは中学校の
小遣いの岡本さん夫婦だったことを記憶している。

12月8日朝礼の時舎監の先生から真珠湾攻撃を聞いて興奮

三年生の時、転校してきた同学年のTと中華料理屋で食事を
していたら中山先生とバッタリ会った、翌日母親が呼び出され
筒井校長から停学一週間を言い渡された。今思うとそれほど
悪いことだったとは思わない。

地元の学友Eに誘われて鴨緑江対岸の満州国安東県に行った
ことがある。夏はプロペラ船で、冬は満人の漕ぐ「橇」に乗って
行きは10銭、帰りは5銭と向い風、追い風で料金が違っていた
ことを教えられたものだ。
夏休みに入る一週間前は道路工事などの勤労作業には参った

安東には姉が女学校の寄宿舎にいて、小遣いが無くなったら、
少し回して貰うのが目的だったことを反省する。
ロシヤレストランの「ビクトリヤ」のケーキやプロシキが旨かった

4年生になった頃は、中学から幼年学校、海軍飛行予科練に
進んだ先輩の「戦時講和」を講堂で聞いて、予科練に行くこと
を決心したものだ。4年生を終了した時に鹿児島県は垂水の
航空隊に入隊するように通知が来た。

母と関釜連絡線で内地下関に渡り母は東京に、団体で鹿児
島の連絡船乗り場から桜島に渡り、垂水航空隊に着いたが
飛行場の無い航空隊であった。

母は兄の学徒出陣による陸軍に入隊したので、下宿に置い
てある荷物の整理に行き、熊本の実家行きに乗った汽車の
中で垂水の海軍さんの下宿をしていたおばさんに知り合って
ここに世話になっている航空隊の兵長さんには練習生の時
大いにお世話になって助かったことは終生忘れられない。

しかし訓練で死ぬ思いを経験するとは思っていなかった。





国境の町、新義州府

  朝鮮と支那の境のアノ鴨緑江
    流す筏は よけれども
  雪や氷に とざされてよ
    明日は又 新義州につきかねる
有名な民謡鴨緑江節に歌われた新義州は、筏の街であり木材の都であった。

鴨緑江の上流地域には、千古釜鈸を入れぬ原生林が遠く白頭山麓を中心に
夥しい数量に及び、総督府治世以来、これを伐採し流筏する計画が進んで、
最盛期には月数万尺〆と言われた。筏は吉野川で鍛えた筏師の唄にのって
流されて来た。新義州ではこれをすべて貯木製材し、内鮮満各地に輸出する
ことになり、日を追って新義州の製材は殷賑を極めた。

国境第一の前線都市新義州は、その昔は蘆草茂る砂州でしか無かったが、
明治38年の日露開戦に備えて、京義線が急ピッチで延び、満州側の安東
~奉天間に通じる鉄道建設の為急激に発展をとげ大都市を形成した。
鉄道による典型的な発展都市である。

この新義州と満州の安東との間には、鴨緑江鉄橋がかけられ、1,100mの
鉄橋の間に十字に開くき、船舶の運航を可能にしていたが、昭和7年ごろ、
種々の関係で開閉を中止し、東洋一の景観も消え国境観察者も寂しくなった

それまで平安北道の道庁は義州にあったが1925年(大正15年)新義州府
に移転された。
道庁、府庁、公立中学校、女学校、高等普通学校、商業学校、郵便局、税関
王子製紙工場、鐘紡、無水工場など多くの建物や電気、水道、下水などの、
インフラが建設されて近代都市が現れた。

京義線の終点は元々江岸駅にあったが近代的なレンガ作りで瀟洒な三階建て
のホテルが入ったビルであったが朝鮮戦争の時、米軍の爆撃で鴨緑江鉄橋
の一部と共に消失した。

現在は北朝鮮の都市となっているが、多くの日本による建物が他の都市より
も残っている。




定州周辺Ⅱ

定州邑は平安北道種苗場、農事試験場、など農業指導に明治41年に農商工部所管寧辺試験場から転進し規模を大きくしていった。地勢風土の関係から農業技術面でも、勧業模範場などの試験成績を応用出来ない。農事奨励施設の根本的方針を決める。定州の采果は明治44年頃から栽植され
経営者も年々増え作付け反数も増大して行った。
加納忠男騎兵中尉以下7名の忠魂碑の30m西に聖跡碑がある。これは李朝太祖の戦功記念碑で、高麗朝末期に崔禹生が反逆を企て元朝通じ、その勢力は一時期王朝を覆さん程の強力であった。
李生桂は直将としてこの地に至り、瞬く間にその徒党を討伐したと伝えられる。と(碑文に刻まれてあった)。郭山は義州街道に沿う一部落であったが大正3年定州郡に併合され西南方向は平地で海に
連なり、郭山平野となって一望二千町歩の広大な田である。

現北朝鮮の状況では定州市に昇格、人民軍第8軍と、郭山地区には空軍基地が衛星写真で見える

朝鮮平安北道定州邑周辺

古来、平壌、義州間の要益として守備厳重だった定州は、西北に凌漢山、深源山、独将山などの山岳が起伏し、東南の地は遠く開けて海(黄海)に連なり撻川江の流れは邑内の東方を還流している。
付近一帯は沃野に恵まれ、米や大豆などの農産物に富むほか、果樹の栽培に適し林檎の年産は推測200トンと言われた。定州はもと高麗朝に属し亀州と称した。李朝太祖が高麗元帥となり、元軍を撃破して朝鮮国王となった発祥の地で、定遠、鳥川、隋川とも言われた。のち世宗十二年定州と称し
一時定原と改めたがのち再び定州と改称し、併合後は郭山郡を合わせて今日に至り邑を廻る城壁が残っている。文禄の役(1592年秀吉の朝鮮侵略出兵)には、宣祖は都漢陽を後ににして西に逃げたが、定州では豪卓竜の邸に駕を止めたものの豊臣軍(小西行長軍)の追撃は激しく、韓軍は撻川江畔で防戦に破れ、宣祖は敗軍と西に遁走し、東門に駐踽碑が建てられている。碑は全羅の海中
から採取したもので、石質優美で普通鏡石と称えられいるが、碑文には日本を罵倒した激しい文面
が刻まれている。
日露戦争の初戦は加納忠男中率いる7名の騎兵斥候隊がロシヤ軍200騎に囲まれ援軍が間に合わず全員戦死した忠魂碑が建てられている。

朝鮮人の友達

定州の町は城外、城内の洞に分かれていた。日本人が居留始めたのは、多分日露戦争当時からであろう。我が家は、私の記憶する限り、4回、住み家が変わっていた。物心つかない頃の家は印刷機のうるさい音の中で両親が働いている横に寝かされていたらしい。真向えの「おかめ」と言う料亭、雑貨屋を兼ねた大家さんの家だったらしい。その前の家の前は定州の古株で実力者の「今城」さんと言う家も覚えている。三度目の家の前は「定源金融組合」の建物だった。隣は髪結いさんで同級の女の子「みっちゃん」がいた。そして小学校に入る頃、加納が丘小学校に入学したのは、上の姉が満州
の高等女学校に入学した年だった。学校の正門の前で、両親は文房具店と新聞販売店の他、レコード、雑誌、スポーツ具も兼て朝鮮人の若者が5人ほどと30歳前後の日本の大学を卒業した人も何人か顔を毎日見ていたような思いがある。
隣は「権医院」朝鮮の人の病院だった。他に魯病院がかかり付けでもあった。そして朴と言う人の大きな家には羽の根を切られた飛べない鶴が二羽飼っていた。父の叔母は「東江楼」と言う支那料理家を経営していた。その家は敷地が広く瓦を被せた塀が周りを廻らせていた。そこでその周りの朝鮮人の子供たちと戦争ごっこを毎日のように遊んでいたものだ。

夏は昼は38度くらいに暑くなる日は商戦人の子供たちとも撻川江に水泳にいたtものだ。
帰りは駅の前の吉田旅館で井戸の中に冷やしてあったスイカを食べさして貰うのがお決まりであった
機関区に行くと機関車の方向を回転する手押しの回転台をいたずらに回して遊ぶのは楽しかった。
冬は流れ川の氷上スケートに毎日暗くなるまで滑っていて、良く母親に帰りが遅いと怒られた。

小学校には高等科のクラスがあり中等学校に進まなかった人が少数学んでいて、朝鮮人の生徒も
いて機関士になる者がいた。定州駅からは平壌か安東に列車を引っ張って機関車を運転する機関助手になってたびたびその運転する機関車に載せてくれることがあった。
朝7:00頃定州駅を出発、11:00頃平壌か安東に着く、帰りは3,400:頃に待ち合わせをして機関車に乗り込み、定州駅に着くのは暗くなってからだった。顔が煤だらけとなり母親は洗濯が大変だと良く叱られたものだ。しかし機関車に乗って往復の線路状態、上り坂、下り坂は機関車が客車や貨車が多ければ多いほど速力が遅くなったり、石炭をくべてもなかなか力がでないで身体を踏ん張ることが多かった。戦後何時までもその坂を車で帰ってくる夢を見たが、1992、1992年北朝鮮に行って夢を実現した。

中学校に入学して、同じクラスに朝鮮人と支那人のクラスメートがいた。日本人の中学校に入学出来る朝鮮人の子弟は殆どが2,3歳年上が多かった。江界の医者の息子「金」は殆ど日本人と言葉も様相も変わらなかったが戦後は北朝鮮に残ったと聞いた。劉は人の良さそうな感じの生徒だった。朝鮮戦争の時、共産党に立ち向かって銃撃されて死亡、姜君植は新義州一のヤンバンの息子で父親は日本の国会で貴族院議員であった。本人はソウル大学を出て教授になっていた。
死ぬまで親日家であた。他には崔、金君などがいたが在学中肺病で若死にした。満州国人の谷は
終戦前それとなくいなくなってしまったことが思い出される。

近所に若い朝鮮人の青年がいて私が写生をしていると必ず来て絵を修正してくれたので何時も私の
絵は張り出された。知事賞を頂いたこともあった。
近所の同じく朝鮮人のお姉さんは中々の美人で京城の李華女子専門学校を出た才女であった。日本語は日本人同様の発音であったので誰も日本人だと思っていたようだった。

そういう訳で朝鮮の人にも日本人が好きな人、嫌いな人もいろんな考え方の人たちがいて、その人たちが今どうしているか尋ねてみたい。
北朝鮮に残った金は北朝鮮の海軍司令官になったと噂があるが確かめようが無い。そういえば私が
日本海軍の甲種飛行予科練習生に行く時、自分もお前と一緒に海軍に志望したいと言っていたことを思い出される。若し生存していればこの前北朝鮮に行ったときに知った退役将軍のように悠々自適の生活をしていると思う。でも80歳を超える人は少ないと聞いているので疑問である。


新義州府そのⅡ

新義州と言う町は日露戦争時に当時支那国の遼寧省安東県まで来ていた安奉線とに繋ぐ朝鮮側の京義線の終点で鴨緑江鉄橋で結ばれて駅が川沿いに出来たが、新駅を建設して新しい「新義州駅」が出来て、それまで義州邑にあった平安北道の道庁を移転し、新しい町を作ったとのことである。

その昔、朝鮮の南の方から来た農民が鴨緑江(アムノッカン)の近くで田畠を耕して生計を立てていたが、鴨緑江の氾濫で貧しい暮らしを余儀なくされていたところ、日清、日露の戦争で、日本軍隊が来て、ただで土地を収用する訳に行かず、農民たちに当時朝鮮では土地の登記制度が無く、日本軍が「ここはお前の土地か」と金を与えて収用してその農民たちは皆金持ちになったそうだと子孫からそのような話を聞いたことがある。そしてその子孫たちが日本の高等教育を受けるようになり、中には
息子たちを日本に留学させて急に成金になって中には日本の国会の貴族院議員になった人も出た。

下流に龍岸浦と言う町があって、この町はロシヤが韓国との条約で鴨緑江上流の森林伐採の権益を
取り、その基地として多くのロシヤ人が開発した町である。
新義州から河口の龍岸浦まで多獅島鉄道(私鉄)が出来ていて多くの子弟が新義州の中等学校まで列車で通学していた。船舶の出入りに危険な濃霧を避けるため、河口に灯台を総督府で設置、三浦海軍少佐が多く障害を越え設立に貢献しその記念の「三浦タワー」がある。

新義州の町は駅を中心に街路が真っ直ぐに丁度京都の町に似て作られた町になっている。駅から正面に付きあたった所に国境警備の平壌の第7連隊の二中隊が駐屯、レンガ作りの隊舎があった。
町筋はアカシヤとポプラの並木道で、冬季の雪は少ないが、鴨緑江を超えてくる北風は実に寒くて
安東よりも冷えたようであった。


鴨緑江鉄橋は全長1,100mで中央付近から支那側よりの所に十字型の開閉する橋桁があり、船の運航が出来たが昭和7年頃から開閉を中止したのでついこの情景を見たことはなかった。
橋の中央は単線の鉄道線路で両側は人車道になっていた。この橋に限らず、国境は密輸で生計を
立てる人も多い。新義州の町の有力者は密輸で財閥になったと言う噂も聞いている。列車が支那側から朝鮮側に渡りきったところはスピードを落とすので、密輸品を抱えた朝鮮服を着た人たちが列車から飛び降りてくるのを良く見かけたものだ。それを税関や移動警察の人がつかまえていた。

十数年前北朝鮮に旅行した際に新義州には道庁、府庁、郵便局、女学校、知事官舎、税関、江岸線
東中校舎、道立病院、王子製紙工場、鴨緑江鉄橋新線など他の朝鮮各地の都市よりも多くの日本の建物が残っていた。駅舎は米軍の爆撃で新しい建物が少し東よりに建っていて「新義州青年駅」と
呼称が変わっていた。だがわが「母校旧新義州公立中学校校舎」は朝鮮側の理由でその場所にまだ行けることが出来ないでいる。存在の有無が確認出来ていない。

現在の北朝鮮の中国と接する「新義州市」は特殊地域で外国人は勿論朝鮮人でさへ自由には出入りすることが出来ない。ピョンヤンから国道を車で新義州に入ろうとすると南新義州付近の三橋川の橋元にある安全隊詰め所で検問を受ける。我々が許可を取るために新義州公安本部に電話をして許可が出るまでに一時間以上かかった。しかし新義州市付近の若い女性だろうか、屠殺下ばかりの犬2頭を荷台に積んだ二人の強制は目の前で詰め所の保安兵に声をかけて橋を渡り新義州に入って行った。顔なじみなのだろうと見ていて微笑ましかった。



定州邑そのⅡ

古来、平壌と義州間の要衝の地としての定州は西北に凌漢山、独将山などの山岳が起伏し、東南の地は遠く黄海に流れ注ぐ撻川江は邑内の東方を貫通していた。付近一帯は沃野に恵まれ米や大豆などの農産物に富み果樹の栽培に適しりんごの生産は年間二百トンに達した。定州は元高麗麻に属し亀州と称していた。李朝太祖が高麗元帥となり、元兵を撃破して朝鮮国王となった発祥の地で
定遠、鳥川、隋川とも言われた。義州街道の要地として守備厳重な城壁が残っていた。文禄の役(1592年)秀吉が朝鮮侵略出兵には宣祖は漢陽から西に逃げたが、定州では豪卓竜の屋敷に駕を止めたものの小西行長の追撃で敗軍となって西に敗走した。
平安北道の種苗場は寧辺種苗場から移転され、農事試験場と共に研究機関として明治41年に設置された。
又果樹栽培のりんごは明治44年から栽培経営者も増え作付け反数も増大した。定州の古跡として
明治37年の日露戦争における加納忠男騎兵中尉率いる7名の偵察隊が200騎のロシヤ騎兵隊に
遭遇、本隊の援護が着く前に全員戦士した忠魂碑が加納が丘にある。
この忠魂碑の30メートル西に隔てて、李朝太祖の戦功記念碑は高麗朝の末期に崔禹生が反逆を
企て元朝と通じ、その勢力は一時期王朝を覆さんとするほど協力で有った。李生桂は直将としてこの地に至り瞬く間にその徒党を討伐したと伝えられる(と碑文に刻まれている)

郭山平野は一望二千町歩に達し、日本から視察に来た人は皆その広大さに感嘆した。

明治41年朝鮮鉄道開通の際、京義線の平壌、新義州間の中間点として、燃料と水と機関車交換の補給地に選ばれ、以来交通の要衝地になり昭和14年に開通した水豊ダムへのへ平北鉄道のターミナルステーションで乗り換え地点となった。この平北鉄道の建設にはエピソードもある。それは水豊ダムの水力タービンがあまりにも大きくて線路の土手やトンネルの穴を大きく削って輸送したことである。又日支事変が始まると日本からこの京義線を使って兵員移動に毎日多くの輸送列車が定州駅を
通過したものだ。愛国婦人会国防婦人会の奥様方がボランティアで弁当の炊き出しに借り出されていた。

定州の町は人口約一万人の内、日本人居留民は鉄道関係の人を含めて1200人余り、朝鮮の人々は約8,9000人ほどだったと思う。支那人は野菜つくりの家庭が20所帯くらいいただろうか?
他に東江楼と言う支那料理屋に5,6人の若いニーやんがいたように記憶する。

町には定州郡の郡庁、邑事務所、裁判所、警察署、税務署、加納が丘小学校、朝鮮人子弟の為の
小学校が朝日、城東と二校あった。何れも校長は日本人で会ったように思う。
あと大きくは定州駅、鉄道官舎、機関区、鉄道グランド、平北鉄道、電気会社、農事試験場、畜産場
商業銀行、信用金庫、定州神社などあり、日露戦争関係の多くの旅館、料理屋など商業はさかんであった。この小さな町に旅館だけでも玉屋、おかめ、いろは、お多福、吉田旅館、他数軒とは多ぎた。

定州神社の祭礼は毎年盛大であった、仮装行列や神輿担ぎなど「東京音頭」の曲が鳴り響いたものだ。7のつく日は市場が開き、定州の町の周りの田舎からいろりおな物産を持て広場で市が開くと、
内、馬、豚などのほか野菜、器具、食料、家具など大いに賑わっていた。若者の朝鮮相撲、シーソー
ブランコなどの競技も賞金が付き子供はチェギなどの遊戯にかけていたものだ。






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