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海外旅行

戦後、朝鮮の北部にいる家族との連絡が取れずに親戚に
頼っていたが何時までも厄介にもなっておれず、生活の為
製塩の会社に働いた。当時は塩一升と米二升が物々交換
の対象として塩は米に倍のかちがあった。

その米を親戚の家にお世話になったお礼として持参したが
そう塩ばかり食べてはいけないので、米と交換していたよう
だった。その頃はまだ18歳の若さで上級学校への望みは
捨ててはいなかった。

やがて語学の専門学校に入学することが出来て、製塩会社
での友達も誘い共に専門学校に通学した。
その友達は市内の駐留軍キャンプに英語の勉強を兼ねて、
夜間の授業に切り替えた。私も同じように夜間に切り替えて
より勉学に励みたかった。しかし思うようには行かず、諦めて
上京することによってより大きな希望を持ちたかった。

そして先に東京で教員生活をしていた上の姉の家庭に寄宿
して更に東京の大学進学の為、駐留軍に章句を求めた。
そして丸の内にあった米第五空軍の月島基地のストレージ
クラークとして働くことになった。英語会話の実地勉強になった
のだ。毎日が充実してアメリカ人GIと直ぐ友達になれた。
しかしその基地は一年も経たずに閉鎖となり、銀座「松屋」に
あったポストエクスチェン(PX)切り替えられた。

しかしここも2年ほどで閉鎖となり今度は朝霞キャンプドレーク
に鞍替えとなった。又其処から大和田レシーバーステーション
に(支店)に行かせられたが、そのキャンプは小さな米軍宿舎
でGIも200人程度の家族的ば雰囲気であった。
支店は朝10:00開店、午後5:00には閉店、開店時にはドア
の前はGIの行列で「オープンハリーアップ」と催促される始末だ
従って毎日決まった顔ぶれが親しく待っていた。GIスラング会話
で碌な英語しか覚えなかった。それでも楽しい仕事場であった。

日系アメリカ人が経営する、クライスラー車総輸入代理店に就職
したのは昭和31年であった。これも二世米国人は「国際興業㈱
に買収されて当時悪名高い「小佐野賢治」会長直接の配下に組
入れられ営業営業活動を叩き込まれたものだった。

現場は田町の泉岳寺付近にあり、毎日東京タワーの上に日に日
に伸びて行情景を見ていた。時に車販売で詐欺に遭い横須賀の
土地家屋を売るために泣き泣き子供二人と家内を連れて古い家
から通勤したこともあった。

年は変わり、アメリカの出版会社にも約8年ほど勤務したことも、
生活の苦しさを味わった。この時は東北、北海道地区の責任者
として家族と共に現地に住み東京オリンピック時は地方にいた。

戦後30年、思い切って雑貨輸入卸会社を夢見て独立開業を実
行に移して見た。始は試行錯誤で5年を過ぎた頃から、徐々に
利益を生み出し、へ製に変わった時点から後継者を育成したい
と考え三女夫婦に望みを掛けて見たが物の見事に失敗であった
昭和60年頃、中学校同窓会が韓国「ソウル市」で韓国人同窓生
を含めて80人ほどの同窓生が集まり戦前の母校を偲んだことも
夢のようであった。

続いて中国、北朝鮮の国境の町の鴨緑江周遊の旅を企画しおて
同窓生20名で思い出の町が覗ける中国の遼寧省丹東市旅行を
観光した。
平成4年、北朝鮮の国際旅行社の朴専務とご縁があって、早速
同窓会の事務局幹事と計らい「新義州市訪問旅行」を企画した。
約40名が参加、北朝鮮は危ない国と思われていた特別な旅行を
成功させたことは参加の同窓生の感謝の的になった。

家内の協力を得て、会社の利益は順調に伸びたが、時勢は変わり
つつあったことに気が付かなかった。

平成7年、フランス旅行のツアー参加を家内と楽しみ、続いて北欧
旅行、イタリヤ観光と二人で海外旅行の計画が楽しみになった。

カナダの船用ランプの会社が宣伝のカナダ、ナイヤガラ、ケベックの
観光旅行を募集していた。中学時代のK、Mに案内すると二人とも
夫婦連れで参加することになった。60年も昔の中学校同級生3組が
一週間のカナダ旅行を楽しんだ、初めてのナイヤガラは雄大な光景
で、稀にしか行けないケベックも異国情緒があった。

平成7年再度北朝鮮旅行の機会が出来て、「新義州会」の会員と北
朝鮮は新義州市に行くことになった。
次に・・・



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コメント

北朝鮮音楽

]CD届きました。どれもいい曲ですね。
有難う御座いました。[絵文字:v-506

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