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10/04のツイートまとめ

kshinsia1spn6sp

セブ島に先輩が余生を送っている。セブ島は高齢者にとって暮らしやすい!
10-04 10:08

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09/12のツイートまとめ

kshinsia1spn6sp

明後日の同窓会は午後から始めるが、東京から5時間かかるので前日に出発、他の3人も2泊の予定。新幹線の指定席の隣席に4人が集る。
09-12 22:50

65年目の終戦記念日

終戦から65年目の今日
今日は8月15日、日本がアメリカに戦争で負けた記念の日である。

65年前の今日、私は千葉県の香取基地に海軍飛行予科練習生として基地の分遣隊兵舎にいた。
分遣隊の体調は叩き上げのA大尉で,
将校は他に2,3にんいたと記憶している。他に若い軍医中尉もいて隊員が具合が悪くなると
直ぐ電気治療をするので隊員は電流の身体を通すのが嫌で剛毅になる者が少なかった。

この日8月15日は今日のように猛暑の日で逢った事を覚えている。分隊士の伝達で午後12時
隊長宿舎の前に全員集合せよとの命令が朝食の時にあった。正午ラジオから重大放送があるので
司令部からの命令である。隊員全員が畏まって隊長宿舎の前に整列、ラジオ放送を聞いていた。
天皇のお声は初めて聞くが少し甲高い声であったように思った。
「忍び難きを堪え云々・・と聞いている内にこれは戦争に負けたのだな」と感じ取った。
隊長が軍医に難と言っているのかと聞いていたら、軍医は戦争に無条件降伏したと言っている」
と言うと隊長はそんな場かな事があるかと自室に篭ってしまった。

回りでは夏の蝉がみーんみーんと激しく鳴いていたように覚えている。

昭和19年4月甲種飛行予科練習生の入隊は鹿児島県垂水航空隊であった。旧制中学校4年生を
終了し同級生4名が一緒であった。他の同級生は同じく千葉県の木更津、館山航空隊に転属して
いたがそれ以来戦争中は逢うことは無かった。

入隊時飛行場の無い濃く謡だったので不思議な気持ちになったが、それは飛行機乗りのパイロット
のコースでは無く、航空魚雷の整備をする練習生であったのだ。死亡とは違うので、辞めますとは
言えなかった。俗に言う甲飛予科練と言って、操縦に限らず通信、整備などのコースに分かれてい
たのだ。今更取り消すわけには行かないのだ。普通練習生として航空魚雷整備の6ケ月の学習及び
訓練を終了して実戦部隊に配属され半年後には高等練習生として学習、訓練コースが待受けていた

甲飛予科練の進級は早く、半年後には飛行兵曹、一年経てば上飛曹となる特別少年兵であった。
ただし訓練は厳しかった。特に体育では、器械体操、跳び箱、カッター漕ぎ、水泳、海軍体操など
の他、航空魚雷整備の教程、英語、数学、偵察、通信と月、月、火、水、木、金、金と訓練は続く

しかし入隊して3ヶ月が過ぎた頃から右舷左舷に別れ泊がけで外出が出来るようになった。

昭和19年12月、普通練習生のコースを卒業して、同期の仲間20名と香取基地に配属された。
その時他の同期のもので朝鮮、台湾の基地に転属となった連中は渡航の船が米潜水艦の魚雷攻撃を
受けて40名ほどが水没戦死と後日聞かされたのだった。合掌!

今日終戦となった時から65年目の記念日には

同上#3今年は8月15日が来て戦後65年目となる。
朝鮮の西北部の田舎町(北朝鮮)で生を受けた私は、小さな町(日露戦争緒戦の地)で小学校を出て
道庁のある「新義州公立中学校」に進学、昭和16年12月8日「大東亜戦争が真珠湾攻撃かあr始まった
のは中学2年生の2学期が終る頃であった。
中学校の授業はこの頃から軍事教練が強化され始めたのであった。
4年生になった頃幼年学校や海軍甲種飛行予科練習生に進んだ先輩達が母校の行動の縁談に立って「我に続け」と軍国行進をアジっていたものだ。当時の3,4,5年生たちはこぞって少年兵を志したのだった。

旧満州と旧朝鮮の国境を流れる「鴨緑江」は日本で一番長い川だと歴史の時間に習った。その鴨緑江の流れの畔で中学校4年間を学び、海軍甲種飛行予科練習生を志願して、昭和19年4月、鹿児島県の垂水町にあった海軍航空基地に入隊する事になった。航空基地といっても飛行場の無い基地であった。
ゼロ戦のパイロットになってアメリカの戦闘機と戦い武勲を立てることがこの頃の少年飛行兵の生き甲斐であったが、甲種飛行余暇練習生の訓練目的は初志のパイロットでは無くこの基地は航空魚雷の整備普通練習生のコースであった。中学校の同じクラスから私の他3人が別の分隊に配属されていた。

6ッ月の訓練の終了後私は千葉県の香取基地に同分隊かあr他の19名と供に転属となった。
同窓の3名は同じく千葉県の「木更津航空隊」「館山航空隊」などに配属され戦争中は二度と会う事は無かった。戦後は家族の引き揚げ、荒涼たる戦後の焼け野原の中にあって、衣食住の貧しい社会の中に敢然と生活の為職業を選ぶことなく一生懸命に働いたものだった。
食料は戦後の配給では餓死者も出るくらいの貧民の社会であった。焼け跡を復興し、粗末な収入で進学、アルバイトなどで糊口を拭うのも必死だった時代である。


07/27のツイートまとめ

kshinsia1spn6sp

@omatsu777%20
07-27 22:51

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